川奈まり子の実話系怪談コラム 樹海のモーテル【第二十八夜】
樹海のなかに、ひっそりと佇むモーテル。そこに吸い込まれるようにして入り込んだカップルの行く末は…。
2015/11/11 19:00
1998年の五月頃のある夜、当時大学生だった藤田さんは、下宿のあった名古屋から静岡県にある遊園地、富士急ハイランドまで彼女を連れてドライブに行くことを急に思い立った。
衝動的に閃いて、善は急げとばかりに車に飛び乗ったのが、深夜0時。
宿の予約もしていない。彼女が大いに乗り気になったことから、ドライブは当然、冒険の性質を帯びた。
富士急ハイランドでは、世界一長いジェットコースター「FUJIYAMA」が、その2年近く前に営業を始めていた。富士急ハイランドに行ったことがまだなく、乗るのが楽しみだった。
中古のジムニーを駆って夜道を突っ走り、車中で仮眠をとっただけで朝の開園時から富士急ハイランドで一日中遊んだ。そんなことをすれば当たり前だが、藤田さんは日が暮れる頃には疲れはて、ベッドが恋しくて仕方なくなった。
そこで彼女と宿を探したのだが、まだスマホも無く、カーナビも普及していない頃のこと。
眠気をこらえて再び藤田さんはハンドルを握るはめになった。帰り道の途中で宿を探すことにしたのだ。
大きな道路沿いには、必ずホテルや旅館があるものだ。
なんとかなるだろうと思っていた。
ところが、富士急ハイランドのすぐ近くのところはどこも高そうで手が出ないか満室であるかのどちらかだった。宿を探しながら車を転がすうち、次第に町から遠ざかって、樹海のあたりまで来てしまった。
富士急ハイランドと名古屋を繋ぐルートのひとつ、県道71号線の途上である。 道路の左右は自殺の名所として悪名高い青木ヶ原樹海。夜が更けてくるにつれ、木立ちが抱える闇がこちらに迫ってくるように感じた。怖い。しかも眠い。
藤田さんは、このままでは居眠り運転をし、事故を起こしてしまうのではないかと焦った。あいにく彼女は運転免許を持っていなかった。だから運転をかわってもらうことも出来ない。
救いはと言えば、運転していない分、彼女の方が体力を温存しており元気だということだった。それに彼女は非常に楽観的な性格で(そうでなければこんな無茶なデートには応じないだろう)明るく、愚痴を言わない女性だった。
お日様みたいな彼女の魅力に、気分だけでも多少は救われた。しかし、やがてそんなことではどうにもならないほど体力が尽きてしまった。
もうダメだ。樹海は怖いが、道端で車中泊するしかないか……。
疲労困憊し、絶望感に捉われだした頃、突如として前方にホテルのものらしい明かりが現れた。
深い森に抱かれるようにしてポツンと建っている。辺りに人家はない。
近づいてみたら、かなり古くて小汚らしい、しかも安っぽいモーテルだった。何やらいかがわしい雰囲気も漂い、藤田さんの頭には咄嗟に「連れ込み旅館」という言葉が浮かんだ。
こんなところに可愛い彼女を連れ込むのは気がひけたが、もはや倒れる寸前であり、背に腹はかえられないと彼は思った。
「一刻も早くきみと抱き合いたいんだ」
そう彼女に言って、そのモーテルに入った。
ちなみに、藤田さんからこの体験談を聞かせてもらった後に、私が独自に検証し、件のモーテルは、静岡県富士宮市上井出の県道71号線上に存在する「ホテル青い鳥」にほぼ違いないということが判明している。
藤田さんと恋人が訪れてからしばらく後に殺人事件が起きて廃業したが、まだ建物が残っていた。
平屋建ての連棟式コテージで、こじんまりとした建物だ。看板の色遣いなどに往時の雰囲気が偲ばれた。たしかにラブホテル風だった。
このモーテルは暴力団が経営していたと言われており、廃墟の中で本物の拳銃が発見されるという騒ぎがあったということだ。
廃モーテルから県道を南へ数十メートル行ったところへ右手に入る路地があり、前方にトンネルが見える。
トンネルを潜ると急に目の前に墓地の景色が開けるのだが、潜らずにトンネル手前の右側の木立ちに視線を投じると、そこに獣道のような小路があって、廃墟の裏口へ続いているそうだ。
が、近頃ではそこを歩く者は滅多にいないと見え、小路は半ば雑草に覆われてしまっていた。
こんな廃モーテル「ホテル青い鳥」には、幽霊が出る。
そういう噂があり、インターネットの心霊スポット案内サイトで「あまり有名ではない」という但し書きつきで紹介されていることも私は確認した。
さて、それはどんな幽霊かというと――。
藤田さんが「早く抱き合いたい」と彼女に言ったのは建て前で、今すぐベッドに横になって眠りたいというのが本音だった。
幸い彼女は嫌がらずについてきてくれた。
モーテルの駐車場に車を停め、部屋を借りた。
部屋のドアを開けたときのことを、藤田さんはこう語った。
「その瞬間、部屋の中からドロッとした重たい空気の塊が押し寄せてきて、僕の全身を包んだんです」
異様な瘴気のようなものがドアから噴き出してきて躰を包まれ、藤田さんは反射的にドアを閉めそうになった。が、一瞬早く、彼の脇から彼女が部屋を覗き込んで嬉しそうな声を出した。
「あら、案外キレイな部屋じゃない」
そう言うが早いか、彼女は藤田さんの横からするりと部屋に入ってしまい、室内を点検しはじめた。
明らかにウキウキしているそのようすを見て、ここに泊まらないという選択肢が消えたことを藤田さんは悟った。
「でも妙に寒いんです。日中は半袖で過ごしていたぐらい暖かな日だったのに鳥肌が立つぐらい寒かった。おまけに部屋の明かりをちゃんと点けても、なぜか暗い感じもしました。とにかく、その部屋は全部ヘンで怖かったんです」
部屋を替えてもらうことも出来た。けれども藤田さんは彼女の手前、なんだか変な感じがして怖いから、と説明することが出来なかった。
彼女には内緒にしていたが、藤田さんには子供の頃から霊感のようなものがあった。彼女はというと霊感の「れ」の字も無いタイプで、実際、この部屋に入ってからも何も違和感を覚えていないようだった。
持ち前の明るさで、疲れたようすもなく蝶のようにヒラヒラと部屋中を飛び回り、クローゼットなどをあちこち開け閉めして探検している。
藤田さんは、彼女に同調しようと決意した。
カラ元気ではしゃいで見せ、一緒に冷蔵庫を覗き込んだりテレビを点けたりしていたが、やがて彼女が自分のバッグを開けて荷物の整理をはじめたので、
「ちょっと風呂を見てくるね!」
と声を掛けてバスルームに行った。
元気のいい振りをしていたそのままの勢いでバスルームのドアを大きく開けて、藤田さんは見た。
彼から見て真正面の洗い場の床に、女が、こちらを向いて立っていた。
「ひと目で違和感を覚えました。十年以上前に流行ったファッションだったから。ソバージュヘアで、白地に黒い水玉模様でもっさりした形のワンピースを着て。三十代くらいの、目鼻立ちが整った美人でしたが……」
ソバージュヘアが流行したのは80年代後半から90年代前半にかけての頃だと言われているが、お洒落な人は80年代前半からやっていたように思う。
実際調べてみると、80年代初めにフランスの美容界で「クープ・ド・フランス」というネーミングで初めて発表され、日本では女優の故・大原麗子さんが83年に映画『セカンド・ラブ』でいち早くこの髪型にしていた。
故・本田美奈子さんや今井美樹さんがソバージュヘアにして一般に浸透していったのは、それからもう少し後のことだ。
藤田さんに確認を取ったところ、バスルームに佇んでいた女性の服は、ボディーコンシャス(通称ボディコン)ではなく、「もっと野暮ったくて、お母さんが着ていそうな」ワンピースだったという。
ボディコンとソバージュヘアの流行が重なるのが、86年から91年のバブル期の頃。ということは、この女性のファッションは83年前後のものということになる。
83年というのは、ちょうどNHKの土曜ドラマ枠で松本清長原作のドラマ『波の塔』が放送された年だ。
『波の塔』は再三映画化・テレビドラマ化されており、一説には樹海での自殺を流行らせたと言われている。
ストーリーのラストで青木ヶ原樹海でヒロインが自死するのだ。
1970年にもテレビドラマ化され、その後、74年に小説『波の塔』を枕にした女性の白骨死体が青木ヶ原樹海で発見されたそうである。
――その同じ樹海の只中にあるモーテルで、藤田さんはソバージュヘアの女と対面してしまったというわけだ。
たっぷり1秒間、もしかするともう少しの間、藤田さんは女と目を合わせて向かい合っていた。
それから我に返り、慌ててドアを閉めて叫んだ。
「なんだ!?」
なあに、と彼女が怪訝そうに振り向くと、日頃は心霊系の話題を避けてきたことも忘れ、パニック気味に
「人がいた!」
と大声で応えた。
「ええ? 何言ってんの」
「ホントだってば!」
彼女は藤田さんの言うことを信じなかった。怖がりもせず、つかつかとやってきて、止める間もなくバスルームのドアを開けてしまった。
バスルームは空っぽで、
「ほらね。だぁれもいないじゃない」
と彼女は笑った。
「ええ。たしかに女はいませんでした。でも、風が吹いてきて、僕にぶつかったんです」
風が躰の中に入ったように感じ、藤田さんは
「やっべえ!」
と叫んだ。
「なんにもいないのに、何が?」
「今、幽霊がいたんだよ!」
「でも、見て。ね? 何かいる?」
怖々バスルームの中を見回したが、女の影も形も見当たらなかった。
「……いないね。でも、僕もう今日はお風呂はいいや。なんだか寒いし疲れちゃったから、寝ててもいい?」
「いいよ。体調悪いんだね。私はシャワー浴びるから、お布団に入ってて」
そういうわけで、彼女はバスルームでシャワーを浴び始め、藤田さんはベッドで布団に潜り込んだ。
だが、目を閉じると、さっき見た女の姿が瞼の裏に蘇ってきて眠るどころではなかった。
流行遅れのファッションに身を包んだ不気味な女は、完全に無表情だった。「能面のような」と言われる感情を抑制した顔ではなく、表情がまるで死んでいて、ひどく虚ろだったのだという。
あれは生きた人間ではないと藤田さんは確信していた。
「幽霊を僕は何度か見たことがあるんですが、どれも生前の姿で出てきて、生きている人間と見分けがつかないほどでした。でも、あまりにも無表情すぎて奇妙な感じを受けることが多いんです」
魂が抜けたような顔つき。それに、なんといっても魔法のように消えてしまったのだから人間であるわけがなかった。
ややあって、彼女は何事もなくシャワーを浴び終え、ほかほかした湯上りの躰を藤田さんの横に滑り込ませてきた。
彼はそのときもまだ寒気と闘っていたので、急いで彼女に抱きつき、脚を絡ませてぬくもりを貪った。この部分を語るとき藤田さんは
「幼児返りしてました」
と笑っていたが、それぐらい怖かったということだろう。
しかし、いつしか彼は眠りに落ちた。
翌朝から再びドライブして、途中で何度か寄り道をし、名古屋の下宿に戻ったのは夜の7時半を少し過ぎた頃だった。
帰宅すると彼女はさっそくシャワーを浴びはじめた。一方、藤田さんはベッドに横になってテレビを点けた。
やがて、毎週愉しみにしていたナインティナインのバラエティ番組『めちゃ×2イケてるッ』が始まった(ということは、この日は土曜日なのだ。同番組は96年10月から2015年11月現在まで、毎週土曜日夜7時57分から8時54分にかけて放送されている)。
そのときには、藤田さんは昨夜感じた怖さを忘れかけていた。
朝から今まで、おかしなことは何も起こらなかったのだ。そして今、彼女は鼻歌をうたいながらシャワーを浴びている。ナイナイは相変わらず面白い。
これを見終わったら僕もパッと風呂に入って、今夜はぐっすり眠るんだ。一晩経ったら、あんなことはすっかり忘れて、二度と思い出すこともないだろう。 そう思っていたのだが――。
突然、藤田さんは金縛りにあった。
急に全身が硬直したように固まり、動けなくなってしまったのだ。
すぐそばのテレビは、バラエティ番組では司会のナイナイをはじめタレントやお笑い芸人が、にぎやかに笑いを繰り広げている。
彼女は上機嫌でシャワーを浴びている。
そんな中、彼だけが非日常な世界に堕ちていた。
唯一、目玉だけは動かせた。
その姿勢のまま見える限りの範囲をぐるりと見回してみて、藤田さんは縮みあがった。
足もとにモーテルで見たソバージュの女が佇んで、彼の顔を凝視していたのだ。悲鳴が出せるものなら、絶叫していただろう。でも出せない。唇も舌も動かないので、息だけで
「たすけてたすけて」
と言ってみたものの、あっちでのんきにシャワーを愉しんでいる彼女に聞こえるわけもない。
ソバージュヘアの女は、昨日と同じ服装で、表情が無いところも変わらなかった。ただし、今回は彼をじっと覗き込むように見つめている。
何か目的を持った眼差しで……。
藤田さんは頭の中で女に謝りはじめた。
「テレパシーなんて使えませんが、幽霊ならこっちが考えてることが読めるんじゃないかと思いました。馬鹿みたいですよね? でも必死でしたよ」
彼は
「ごめんね。僕はダメな人間だから、きみに何もしてあげられない。ごめんね、ごめんね」
と繰り返し謝罪の念を送った。 けれど、女の幽霊は一向に立ち去ってくれなかった。
謝っても駄目なのだ。
では、と次に藤田さんが思いついたのは、近所の神社に道案内することだった。
「この建物を出たら右に向かって一つ目の角を左に行って……という具合に、念で説明しました。そこへ行ったら救われるから、と頭の中で言いながら」
それでも女は消えなかった。このまま一生とり憑かれてしまうのか?
髪の根が逆立つような恐怖のどん底で、藤田さんはなんとかして女から逃れようとしたが、どうしても躰が動かせず、焦るばかり。
と、そのとき――彼女がバスルームから出てきた。
「途端に、金縛りが解けて、女の姿が消えました。煙のようにスーッと薄くなって、いなくなってしまったんです。何の気配も残りませんでした」
今度は藤田さんは誤魔化さず、今あった出来事を正直に彼女に打ち明けた。
彼女は何も言わずに、彼を強く抱き締めた。
藤田さんが本気で怯えていることがわかったのだろう。
ところが、抱いてくれたと思ったら、すぐに彼女はアッと声をあげて藤田さんから両腕を離した。
そして真剣な表情で彼の目を見つめ、こう言った。
「あのとき、幽霊は本当にいたんだね。あそこから連れて帰ってきちゃったんだ。こっちの肩だけ、すごく冷たくなってるよ。まるで氷みたいに」
言われて、藤田さんは彼女が指した方の肩を自分で触って確かめた。
本当に、そこだけがびっくりするほど冷たくなっていた。
「ごめんね。信じてあげなくて」
「ううん。きみが出てきてくれて助かったよ」
彼女は、藤田さんの冷たくなった方の肩を撫でてくれた。すると、すみやかに冷たさは消えてゆき、間もなくすっかりぬくもった。
それ以来、彼はあのソバージュヘアの女の霊を見たことはないという。
女は、藤田さんが思念で道案内した近所の神社へ行ったのか。
それとも、樹海の中に建つ廃モーテルへ帰っていったのだろうか。
松本清張の小説『波の塔』の最後では、悲劇のヒロインの背中が黒い樹海に次第々々に吸い込まれてゆく。
ソバージュの女は樹海の自殺者ではないかもしれないが、私にはあのシーンが思い出されてならなかった。
藤田さんは女の顔を今でもはっきりと憶えているそうだが、なぜか私が思い浮かべるのはソバージュヘアの後ろ姿ばかりなのだ。
――彼女の前には、真っ暗な木々の海原が果てしなく広がっている。
(文/しらべぇ編集部・Sirabee編集部)