【川奈まり子の実話系怪談コラム】堀田坂今昔【第三十八夜】

2016/04/13 19:00

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昨年、息子の顔に出来た湿疹が悪化したため広尾の日赤医療センターへ連れていった帰り道、秋の入り端の水曜の午後四時頃のことだ。


よく晴れた日で、帰りがけに散歩をするのは当初から織り込み済みのことだった。

息子に水泳の練習を休ませるための作戦で、散歩を餌にした経緯がある。

息子は水泳に熱心に打ち込んでいて、練習を休みたがらない。小五になると同時にクラブチームの選手に抜擢されたのだが、戦績は芳しくなかった。

子供なりに周囲の目を気にしているのかもしれないと思った。

健やかな十歳児のツルリとした肌が、鼻の下から口周りにかけて病変して火傷を負ったかのように爛れている。

痛ましいようすだが、本人は痛くも痒くもないらしい。

ストレスのせいだろうかなどと案じている私の方が、よほど曇った表情をしている。

息子は散歩が大好きだ。自意識が萌え出るのも今少し先なのだろうか。顔のことなど気に掛けるようすもなく、上機嫌で私の先に立って日赤の正門を出た。

高樹町方面へ少し歩いていくと、道沿いに郵便局がある。

そこからさらに60mほど真っ直ぐ行ったら、堀田坂上の角だ。

「こっちに行こうか」と私は右手に伸びる堀田坂を指さした。「ずぅっと下っていって、坂の下のあたりで右へ曲がって道なりに行くと広尾駅に着くの。そこから電車に乗ってもいいし、もっと歩いて有栖川公園を抜けて麻布十番まで行ってもいいし……」


息子に説明すると、若い頃の想い出が勝手に頭の中に繰り広げられて、たちまち苦しくなった。


堀田坂はさして幅広くもない二車線のアスファルトの道路で、坂上から見て右手は渋谷区、左手は港区になっているのが特徴だ。境界の道なのだ。

右手は欅並木と柘植や躑躅の植栽が緑豊かな高級マンション街で、私は二十歳そこそこの頃、前夫とここで暮らしたことがある。

あの頃、欅は丈が低く、葉陰は小さかった。

1987年から翌88年にかけての頃のことだ。この住宅街が竣工したのが1986年頃だというから、樹々も植えられて間もなかった。

息子はやがて、右手に公園を見つけた。

そうそう……。ここには昔も公園があったっけ、と私は思い出す。前夫とベンチでサンドイッチを食べたことがある。彼が、遊具で遊ぶ子供らを眺める表情を見て、私は不安に駆られたものだ。私もまだ子供みたいなものなのに、と。

彼は私より24も年上だった。

当時の私の年齢と現在の息子の歳が10歳しか違わないのだと気がついて、時の流れる速さに愕然とした。


「おかあさん、遊んでいい?」

「いいわよ」

息子はたちまち遊び始めた。他には子供は誰もいない。昔とは景色がずいぶん違う。

老人が2人、てんでにベンチや柵に腰を下ろしているだけだ。

子供たちは、みんな育ってしまったのだろう。


そのうち遊びに飽きたのか、息子の動きが鈍くなった。遊具はごく小さく、幼児向けのものが1つあるきりだ。運動が得意な10歳児には物足りないに違いない。

「暗くなる前に有栖公園に行こう。あそこならたくさん遊べるでしょう」

そう提案して、息子を公園内の小径に促した。


大人の背丈より4、50cmも高く茂った植え込みを回り込んで、遊歩道が急なカーブを描いていた。そこを歩けば、堀田坂に戻れる。

小径に入るとき、ふいに息子が手をつないできた。

珍しいこともあるものだ。最近、息子は滅多に手をつなぎたがらない。例外は、凄い人込みや真っ暗な夜道で、不安になったとき。

植え込みの影が行く手に垂れ込めており、息子の気持ちはわからないでもなかった。


手をつないで、私たちは丘のように盛り上がった植え込み沿いを円く歩いていった。

すると目の前に、異様な姿のものが現れた。


最初は何が何やらわからなかった。子供のように小さな、くすんだ小豆色をしたよくわからない塊が突っ立っている。と思ったら、低いところにモシャモシャした黒い毛の塊がくっついていた。

よくよく見れば、それは頭で、鼻先が膝にくっつきそうなほど深く腰を折りまげてお辞儀している人なのだった。


紫や小豆色の矢絣の銘仙の着物とモンペを着て襷をかけ、髷が崩れてあちこちから長い髪が飛び出し、一部は地面についている。

蓬髪と二つ折りの姿勢のせいで顔は見えないが、筋張った首筋の細さや丸みをおびた腰の線から女だということはわかる。

着物は見るからに不潔で、下駄を履いた素足も、炭を擦りつけたように汚れていた。


「おかあさん」

息子が手に力を入れて囁いた。目を見交わす。息子は不安を絵に描いたような表情だ。私も同じ顔つきをしているに違いなかった。

不審な女は微動だにしない。

私たちの方を向いて深々と「礼」をしたままだ。


思うに、息子と私が目に入る前から、この人は頭を下げていた。

視界に入ったときには、もうこの姿勢を取っていたのだから間違いない。しかし、おそるおそる後ろを振り向いても、そこには公園の風景が広がるばかりで、拝むべき像や碑などは見当たらなかった。


引き返そうかとも思ったが、遊歩道には大人が十分に擦れ違える道幅があった。私は息子の汗ばんだ掌を握りしめ、息を詰めて前へ足を踏み出した。

そして思い切って、女の横をすり抜けた。


女は動かなかった。

擦れ違いざまに見た横顔は目を瞑っており、存外に若い印象だったが、顔だちまで見る余裕もなく、私は小走りに小径を抜けて、公園の外へ出た。

アスファルトの舗道に立ったところで、たたらを踏んで立ち止まり、すぐにも走り出せる態勢で後ろを振り返った。


女は腰を伸ばしていた。

左右の手を指の先までぴったりとくっつけて美しく合掌して、目をみひらいて空を振り仰いでいる。そして、合わせた手を天に向かって突きあげたり下ろしたりしながら、すり足で動きはじめた。小さな円を描いて、ぐるぐると。


「おかあさん」

息子がまた私を呼んだ。息子も振り返っていた。「あれは何なの」

あの人は、と息子は訊ねなかった。

人、なのだろうか。私も自信が持てず、首をかしげて見せるほかなかった。

「さあ……。とりあえず、行こう」


堀田坂を再び歩きだす。息子はしきりに背後を気にした。

「後ろから追い掛けてきたらどうしよう」

そう心配するので、「来たら、走って逃げよう」と答えた。

しかし、一向に女が公園から出てくる気配はなく、私は次第に平常心を取り戻した。

坂道を下るに従って、あたりに通行人が増えてきた。横の車道を自動車が走り抜けてゆく。どうしたって、これは正常な普段の世界だ。

もう安心と思った。途端に悪戯心が起こった。


「どうする? さっきのが、ウワァって叫びながら凄い勢いで追い掛けてきたら……」


ちょっとからかったつもりだったが、息子は間に受けて返事もせずに坂道を転がるように走りだし、独りでみるみる遠くに行ってしまった。

100mも先でつまづきながら立ち止まって体ごと振り返り、「おかあさんの馬鹿」と怒鳴る。思わず私は声を立てて笑ってしまい、息子も泣き笑いの表情になった。


その後、有栖川公園で遊び、仙台坂を歩いて麻布十番に行った。

広尾駅周辺から有栖川公園、そして仙台坂を下りて麻布十番へという道筋には、今度は、現在の夫と同棲しはじめた時期の記憶が重なる。

仙台坂近くのマンションが私たちの最初の住処だった。

何か、あの当時はやたらと散歩ばかりしていた。貧乏な上に2人とも途方に暮れて、新しい居場所を求めていた。


仙台坂には、それこそウワァと叫びつつ坂道を駆け下りてくる女の幽霊が出るという言い伝えがあるのだと息子に教えてやると、息子はまたしても後ろを振り向いて怯えたようすを見せた。

「その女は、頭がもげた赤ん坊の死体を抱いているとか、後ろから追い掛けてきて赤ん坊の頭をもいでいくとか……」

息子は面白いほど怖がって、しまいには本気で怒り始めたので、それ以上はよしたが、この幽霊譚には元になるエピソードがあるのだ。


1970年、仙台坂沿いに建つマンションで、30代の主婦が幼い娘の首を包丁で切って殺したのち、首吊り自殺するという無理心中事件があった。

夫に捨てられて暮らしが立ち行かなくなった挙句のことだったというが、発見されたとき、実の母に殺された幼児の首は斬首寸前まで惨たらしく切り裂かれており、室内は血の海だったそうだ。

仙台坂には江戸時代、仙台藩伊達家の下屋敷があり、当時から怪異譚は存在したようだ。

しかし、それを言ったら、この辺りの坂道という坂道に、多くは貉や狐狸がらみの怪談がある。坂道は山と人里の境界で、昔は、山とは異界に他ならない。辻と同じく、異界の者たちが逢魔が時になると彼岸から此岸へ越境してくるとされる。

坂道にまつわるフォークロアが多い所以である。

そんな場所で本当に起きた無残な殺人事件が、古くからの「なんとなく出るらしい」という曖昧な言い伝えに新しくしっかりとした骨格を付け加えたであろうことは想像に難くない。

心中事件以後、現在に至るまで、仙台坂の心霊目撃情報には、血塗れの女が幼児を抱きかかえてこちらを睨んできたり、あるいは追い掛けてきたりするという、ほぼ統一されたパターンが出来ている。

ただ、四十年余り経つうちに少しずつ事件の記憶が薄れたためか、その母子は交通事故で亡くなった人の霊なのだという伝説も生じている。

幼児惨殺を伴った無理心中事件よりかは、交通事故の方が悲劇としてはありふれていて、より身近に感じられるためだろうか。それとも母子が轢死するような事故が本当にあったのか、どちらともわからない。

また、歩いていたら地面から手が生えてきてかかとを掴まれるといった、昔の狐狸がらみの怪談の名残のような話も、仙台坂では今も聞かれる。


江戸の怪談に新しい恐怖が付け加わった例は、息子と不思議な女に遭った堀田坂にもある。


堀田坂の辺りには、江戸時代、下総の国の印旛郡は佐倉の城主、堀田備中守の下屋敷があった。堀田家の下屋敷には2つ怪談話があり、1つは狐狸にまつわり、もう1つは猫にまつわる。

狐狸の方は、天保9(1838)年に起きた。当時、堀田家の面々はもっぱら神田小川町の上屋敷に居て、こちらにはご隠居と、お付きの医師、三輪元進(玄真)が住んでいた。

元進は敷地内に自宅を持っていて、屋敷で隠居を治療すると夜には必ず帰ってくる習慣だったが、同年5月13日、この晩に限ってはいくら経っても帰らず、そのまま行方不明になった。屋敷中総出で探したが元進は見つからず、8日後、屋敷のそばの林の中で腐乱死体になって発見された。

元進の亡骸は裸足で、また足の裏には、山林の中を長いこと彷徨ったために出来たと思われる傷が無数についていた。そのため、これは狐狸の仕業だという噂になった。

噂を聞いた備中守は領国の佐倉から狐狩りの名人で百姓の藤蔵を呼び寄せて、下屋敷の狐狸を捕らえさせた。狐6匹と狸が1匹、藤蔵の罠に掛かったが、死んでいると思った狸が息を吹き返したので、これが元進を化かして殺したのだとされた。

備中守は、捕まえた狸と狐を家中の者にすべて食わせて、その後、祟りもなく無事だったという。


猫騒動は、狐狸事件の20年近く後、安政3(1856)年に起こった。

この前年安政2(1855)年10月2日に、世に言う「安政の大地震」別名「江戸地震」があり、首都直下型M7クラスの大震災で江戸市中の建物の多くが被災したのだが、堀田家の神田の上屋敷も倒壊してしまった。

そこで当時の堀田家当主、堀田正睦は下屋敷に住まいを移すことにしたわけだが、その頃、下屋敷は猫の巣窟と化していて、犬も近寄らないと噂されていた。

ことの始まりは、下屋敷の敷地内に建てられた火防(ひよけ)・火伏せの神である秋葉大権現を祀った秋葉神社の祠で、いつしかそこに古猫が棲みついて妖しい障りをなすようになったのだという。

古猫とは、つまり尾が二股に分かれた猫又であろう。障りを恐れた家人によって、秋葉社とは別に、古猫を鎮めるための祠も建てられた。ところがこれが裏目に出て、古猫の祠に猫の大群が棲むようになってしまったわけである。

堀田正睦は老中首座で開明派として名高った。

開明派というのは幕末に現れた合理的・近代的な思想の持主のことで、代表的人物は島津斉彬、勝海舟。

保守的な思考を嫌い、新時代を切り拓こうという人々なわけで、我もその一員なりと自負する正睦は、下屋敷が近隣で「猫屋敷」と呼ばれて恐れられているという事実を知って激怒した。

開明派の老中首座の屋敷に、祟ると評判の古猫祠や妖しい猫の大群が棲んでいるのは、どうしたって看過できない。

ここからが可笑しいのだが、そこで正睦は猫たちに宣戦布告したのだそうだ。

「これより当屋敷には本来の主たる堀田備中が住まう。ついては古猫の祠を我が菩提寺に丁重に移すこととなった。おまえたちはこれに付いて行き、すみやかに屋敷を明け渡すがよい」

猫対老中。なんだか急に童話的になってしまった。猫に話しかけたり祠を菩提寺に移すと言ってみたり、開明派じゃなかったのか。

ともあれ猫たちは立ち退きを迫られたわけだが、当然すんなりと出ていかなかった。

群れをなして屋敷を襲い、障子や襖を引き裂き、柱で爪を磨ぎ、糞尿を落としていった。

怒り心頭に発した正睦は、家来に猫狩りを命じた。

猫たちはみるみる狩られた。ついに全滅させ、庭に死体の山が出来ると、正睦は大鍋を持ってこさせて猫汁を作らせ、皆にふるまった。食い切れなかった猫の死骸は俵に詰めて佐倉の領地に運ばせて、穴に埋めてしまったという。


――以上のような獣にまつわる怪談があった堀田坂の南側に日本赤十字社病院が建ったのは、明治24(1891)年のことだった。

日赤は当初、広大な土地を有していて、敷地の中に産院や乳児院が別棟で点在していた。そのうち何棟かは、1980年代に住宅地建設用地として敷地の半分を売却するまでに使用されなくなり、長らく廃墟になっていたそうだ。

私と息子がお辞儀女(息子と私の間では、あれをこう呼ぶようになった)を見た公園の辺りにも、かつては大きな廃墟があったはずだ。


病院の廃墟には怖い話がつきものだ。

探してみたら、やはり在った。

50年近く前までは、現在住宅街になっている堀田坂の渋谷区側に、地元の小学生から「赤レンガ」と呼ばれて恐れられている建物があったそうだ。

「赤レンガ」は標本室で、ガラス窓から中を覗くと、胎児や奇形児の標本が見えた。周囲は雑木林で、「赤レンガ」の中は怖いが、虫捕りにはもってこいの格好の遊び場だったようである。

夏の夜明け前、「赤レンガ」のそばに甲虫を捕りに行って、不審な老女の幽霊に遭遇した想い出話を綴っている個人のブログを見つけた。

老女はしきりに何かを探しており、一緒に探してくれと子供たちに頼んだのだという。

「……を落としてしまって」と老女は言っているが、何を落としたのかはどうしても聞き取れない。

しかし子供たちは老女に気圧されて、何を見つけたらよいかわからないまま、皆で草むらを探しまわった。

老女も草むらを分けて探している。必死のようすに釣り込まれ、やがて子供たちも夢中になる。

……と、そのうち辺りが明るんできて、ふと気づけば老女の姿が消えていた。

子供たちは狐につままれたような心地がしたことだろう。


甲虫だけでなく狐狸や猫又も棲んでいそうな暗い木立ちは、現在はほとんど失われてしまった。

しかし仙台坂の狐狸を1970年の無理心中事件の幽霊が引き継いだように、堀田坂の怪談も「赤レンガ」の恐怖などに上書きされて、生き続けているような気がしてならない。

堀田正睦が猫にしたようにお辞儀女に話しかければよかったと、今は少し後悔している。

(文/川奈まり子

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幽霊コラム怪談堀田坂
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