今日の『真田丸』で滅亡する北条氏 でもその後どうなったの?

真田丸
画像は『真田丸』公式サイトのスクリーンショット

本日午後8時(BSプレミアムでは午後6時)から放送されるNHK大河ドラマ『真田丸』。第24回「滅亡」では、豊臣秀吉による惣無事令(私戦の禁止)に違反して攻められた北条氏が滅亡する物語が描かれる。

群雄が割拠し、下克上も絶えなかった戦国時代。江戸幕府が開かれ、いちおうの平和が戻るまで、数多くの大名家が攻め滅ぼされ、歴史の表舞台から消えた。しかし、その後はどうなっているのだろうか?

代表的なケースをいくつかご紹介しよう。



 

①北条家→河内狭山藩1万石

天正18年(1590年)、秀吉に降伏し、北条氏政は切腹。息子で第5代当主の氏直は、徳川家康の娘婿だったこともあって命を助けられ、高野山に流された。

氏直はその翌年、1万石を与えられて豊臣大名として復帰したが、同年に病死。遺領の一部を従兄弟の北条氏盛が継ぎ、河内狭山藩(現・大阪府狭山市)として幕末まで存続した。

戦国時代の幕を開けたとも言われる北条早雲から続く関東の名門は、小大名とはいえ命脈を保った。


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②今川家→高家旗本(1000石)

永禄3年(1560年)、2万5千の大軍を率いて上洛をめざす今川義元が、織田信長の奇襲で命を落とした今川家。世に言う「桶狭間の戦い」だ。

跡を継いだ氏真は、従属していた松平元康(後の徳川家康)らに離反され、永禄11年には婚姻同盟を結んでいた武田信玄にも攻められて大名としては滅亡した。

氏真は、その後徳川家康に領地を与えられ、孫の直房が幕府の儀式などを司る「高家」に起用。500石だった領地も1000石まで増え、明治維新を迎えた。

氏真の次男、品川高久も高家に列している。


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③武田家→高家・旗本

天正10年(1582年)、武田勝頼が天目山の戦いで織田軍に討たれ、滅亡した甲斐の名門・武田家。勝頼の異母兄で、盲目のため出家していた海野信親(竜芳) の子孫が、徳川綱吉の時代になって高家旗本に取り立てられた。

また、信玄の五男、仁科盛信の子孫も徳川家に仕えて旗本となっている。


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④豊臣(木下)家→足守藩・日出藩

大坂の陣で徳川軍に包囲され、淀君と豊臣秀頼が自刃した豊臣家。秀頼の庶子・国松もわずか8歳で斬首され、秀吉系の豊臣氏は断絶した。

しかし、秀吉の正室・高台院(おね)の兄、杉原家定が秀吉より木下姓、次いで豊臣姓を与えられる。

木下家定は、備中足守藩(現・岡山県岡山市)2万5千石、家定の三男・木下延俊も日出藩(現・大分県速見郡)3万石を与えられて立藩し、幕末まで存続した。

両家とも、豊臣氏を本姓としている。


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⑤ 宇喜多家→八丈島で幕末まで流人のまま

豊臣秀吉に猶子として寵愛され、豊臣家五大老のひとりでもあった宇喜多秀家。関ヶ原の戦いでは西軍で最大の1万7千人もの軍を率いて戦ったが敗れ、戦後は島津家を頼って鹿児島に落ち延びた。

3年の潜伏生活の後、江戸幕府に引き渡され、八丈島へ配流。その後50年を島で過ごし、関ヶ原を戦った大名でいちばん最後まで生きている。

八丈島にはその後さまざまな罪人が流されたが、宇喜多家の一族は「浮田流人」と呼ばれ、秀家の妻・豪姫の実家である加賀前田家から生活費を送られるなど特別な扱いを受けている。


ドラマや教科書には、勝ち残った者たちがおもに描かれる。しかし、その陰で敗れ去った者たちと子孫の生き方も、私たちに何かを教えてくれる。

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(文/しらべぇ編集部・タカハシマコト

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