意外と知られていない秀吉の唐入り 和平の鍵は「国書偽造」

2016/07/07 05:30

Dimitar Marinov/Hemera/Thinkstock
Dimitar Marinov/Hemera/Thinkstock

大河ドラマ『真田丸』は現在、豊臣秀吉の唐入りを取り扱っている。

学校では「朝鮮出兵」という教わり方をするが、これは正確ではない。そもそも秀吉は明朝や台湾、フィリピンもターゲットにしていたし、当時の日本人もこの遠征を「唐入り」と呼んでいる。秀吉から見れば朝鮮半島は目標ではなく、通過点に過ぎなかったのだ。

この唐入りは2つの期間に分別することができる。前半は文禄の役、後半は慶長の役だ。日本の中学校では「文禄の役では当初日本軍は快進撃を見せたが、朝鮮水軍の李舜臣に手痛い敗北を喫し撤退した」と教えている。

果たしてそうだろうか? 確かに李舜臣は名将だったが、それはあくまでも「戦上手の李将軍」というレベル。本多忠勝や島左近が日本史レベルで見ればさほどウェイトを占めていないのと同じだ。

当時、日本軍を撤退に至らせたのは明朝の沈惟敬である。



 

■互いの主君に嘘をつく

沈惟敬の名を知っている日本人は少ない。だが、この時代の世界情勢を語る上では李舜臣以上に重要な人物。

唐入りが開始された当初、日本軍は連戦連勝だった。朝鮮軍は水軍はともかく、陸軍は長い平和の影響もあり弱体化。そこで明朝は朝鮮に軍を派遣するのだが、沈惟敬は日本側の小西行長に接触し和平交渉を開始した。

だが、講和に至るための落としどころが見つからない。中国の歴代王朝は、たとえ形式的であっても周辺諸国の支配者を「臣下」と見なしていたからだ。日本や朝鮮などという国は、明朝から見れば「家来」であり「子分」。だから日本との対等な立場の講和には絶対に応じない。

たとえ秀吉が条件面で譲歩したとしても(実際そうしたが)、明側はあくまでも「我々が上、日本は下」という構図を要求。

そこで、沈惟敬は厭戦気分に陥っていた行長にこう持ちかけた。

「太閤殿下が我が皇帝陛下に降伏する内容の文書を、すぐに作ってください。その代わり、この件に関する太閤殿下へのご報告はいかようにもなさってください」


これを聞いた行長は、飛び上がって驚いたに違いない。


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■脆弱な「平和」

秀吉が明朝皇帝に「とりあえず」降伏すると同時に、明朝皇帝が秀吉との対等な講和に応じたと伝える。平たく言えば、互いを納得させるために国書を偽造しろということ。

のちのちの辻褄合わせは、どこかで国書を改竄することでごまかす。こんな奇想天外のアイディアを考え出した人物は、世界史上においても非常に珍しい。

ところが行長は、沈惟敬の提案を承諾してしまったのだ。かくして「互いの主君を騙す」という手段で日本軍の撤退が成立し、一時的な平和が訪れる。

しかし、このようなやり方が極東アジア情勢を安定させることはなかった。露骨な国書の偽造はすぐに発覚し、沈惟敬は死罪。行長も切腹を言い渡されるも、石田三成の弁護で命だけは安堵された。


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■結局みんな大賛成だった

また、この唐入りは「諸大名の反対を秀吉が強引に押し切った」と今も教育現場で説明されているというが、じつは唐入り開始直前の諸大名の意見は圧倒的に「出兵賛成」が多かったという。

加藤清正や福島正則といった秀吉子飼いの武人は一番手柄を競っていたし、地方の豪族の当主などは秀吉から命令がなくとも兵を整えていた。

そのひとつに、蝦夷地(今の北海道)の大名蠣崎氏がいる。はるばる遠方から軍を引き連れてやって来た蠣崎氏に秀吉は大いに感心し、蝦夷地の領土安堵を約束。もっとも、これこそが蠣崎氏の狙いだったのだが。

つまり、「一族繁栄のため」という隠された条件付きながら、多くの大名は唐入りを後押ししていた。それが真相のようである。

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(取材・文/しらべぇ編集部・澤田真一

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