【真田丸】関ヶ原の勝敗を分けた「関ヶ原の外」の戦いとは

2016/08/28 05:30

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※画像はNHK公式サイトのスクリーンショット

大河ドラマ『真田丸』は、いよいよ関ヶ原に近づいてきた。

だが、関ヶ原の合戦についてはじつは様々な誤解がある。そのひとつが、「関ヶ原が東西両軍にとっての決戦だった」ということ。確かに史実は関ヶ原で東西の明暗が分かれたのだが、当時の人間は「関ヶ原は局地戦に過ぎない」と誰しもが思っていた。

両軍合わせて十数万の兵力がぶつかったら、普通は「戦いは長引く」と予想するだろう。たとえどちらかが関ヶ原で敗退しても予備戦力があるし、防御拠点も持っている。そしてそもそも、あの時火を噴いた戦場は関ヶ原だけではない。各地の城で東西が衝突していたのだ。

それらがことごとく東軍有利の状況に置き換わり、この戦いが電撃的な結末を迎えたことはまさに「歴史の奇跡」である。



 

■三河武士の鏡

関ヶ原の遥か東方、上田城で真田昌幸・幸村の親子が籠城した「第二次上田城合戦」。この戦いで真田軍は、徳川秀忠の大軍をその場に釘付けにした。もし秀忠の部隊が上田城を無視して素直に西へ向かっていたら、家康はもっと有利な条件で関ヶ原を戦うことができたはずだ。

だがじつは、秀忠以上のミスを西軍の将が何度もやらかしてしまっている。つまり「戦略上無意味な拠点にこだわってしまった」のだ。

まずは、家康の忠臣鳥居元忠が立て籠もった伏見城に4万もの大軍を送り込んだ戦い。守勢の兵力が2,000人にも満たなかったため、当初は即座に決着がつくと思われた。だが元忠は鬼神の如き奮戦を見せ、実に13日間を耐え抜き最期は敵将との一騎打ちまで持ち込んだ。

この戦いにより西軍は伏見城を制圧したが、その戦略的行動に大きな遅れが出てしまった。家康が美濃へ進出するまでの貴重な時間をロスしてしまったのだ。ちなみに、元忠はその後「三河武士の鏡」として徳川本家から賞賛を受け、江戸幕府終焉までその活躍が江戸城で語り継がれた。


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■天皇を巻き込んだ籠城戦

それと同じ頃、丹後田辺城でも激しい攻城戦が繰り広げられていた。

この城に立て籠もるのは、東軍についた細川幽斎。彼はわずか500の手勢で、1万5,000もの西軍と戦ったのだ。

この丹後田辺城の戦いは、天皇を巻き込んだ大騒動に発展。なぜなら幽斎は歌人としても知られていて、その才が失われることを朝廷が恐れたからだ。そのため、西軍には天皇からの圧力がかかっていたとも言われている。「絶対に幽斎を討ち取るな」ということだ。

この攻城戦も、西軍が当初想定した以上の時間がかかってしまった。関ヶ原の2日前、天皇からの勅命が出されてようやく講和が成立したのだ。だが、ここでも西軍は大きな兵力と時間を無駄に使ってしまった。


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■兵力を分散させた西軍

さらに、近江大津城でも東軍勢力による籠城が発生。

大津城を守るのは京極高次。あの浅井三姉妹の次女・初の夫である。彼は当初西軍に属していたが、土壇場で東軍に寝返ったのだ。

大津城は1万5,000の西軍に包囲されたが、やはり高次は奮闘。大砲を有する立花宗茂の攻撃にも怯まず、関ヶ原で戦いが始まる当日まで西軍を城に引きつけたのだ。

9月15日に高次は西軍に降伏し、高野山へ上った。だが西国一の猛者として知られた立花宗茂が関ヶ原に参加できなかったのは、この戦いのためだ。戦後、勝者となった徳川家康は高次を大いに褒め称え、幾度も高野山に使者を送る。結局、高次は若狭8万5,000石の領主となった。

こうして見ると、西軍は東軍以上に「軍団の動かし方」が稚拙であったことが分かる。目標を美濃・畿内だけに定めていた東軍とは違い、西軍は大坂を軸に兵力を分散させてしまった。

残念ながら、西軍は「戦略指揮官の反面教師」と言わざるを得ない面があるのだ。

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(取材・文/しらべぇ編集部・澤田真一

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