【真田丸】徳川家康が参考にした「豊臣の善政」とは?

2016/09/18 05:30

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※画像はNHK公式サイトのスクリーンショット

大河ドラマ『真田丸』は、すでに関ヶ原の合戦を終えて徳川幕府成立に差しかかろうとしている。

徳川家康は「他人から学習する男」だった。豊臣政権の政治方針を大いに参考にしながら幕府を構築。意外に思えるかもしれないが、豊臣秀吉は内政面でも卓越した手腕を発揮している。

この記事では、秀吉が実行した大善政をいくつか挙げていこう。



 

①度量の統一

天下を平定した秀吉がまず行ったのは、米の量を計る升の全国共通化である。それまでは、地域によって容積がまちまちだったのだ。

世界のどこの執政者でも、力が強くなれば強くなるほど巨大な建築物を建てようとする。ここで、「なぜそのようなものを建てることができるのか?」を考えていただきたい。ひとことで言えば、支配地域下の度量を統一したからだ。

これが簡単なようで、なかなか難しい。たとえばA地域で使われている升をB地域でも使おうとすると、現地の住民から「A地域の升など押しつけられる筋合いはない!」と反発されてしまう。現在使用されているメートル法ですらも、浸透するのに時間がかかった。

それを成功させた秀吉は、やはり突出した能力を持つ政治家だったのだ。


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②刀狩り

かつて『荒野の七人』というアメリカの西部劇映画があった。これは黒澤明監督の『七人の侍』のリメイク権を買った上で制作されたものだが、要は「野武士」を「カウボーイ」にしただけの作品。

だが、違和感はまったくない。つまり日本とアメリカがまったく同質だった時代が存在したのだ。武器を持った荒くれ者が跋扈する時代である。

秀吉はそれを許さなかった。治安維持を約束する代わりに、一般市民から武器を回収。その理念が現代の銃刀法にもつながっている。

逆に言えば、アメリカには未だに「秀吉」が出現していないのだ。


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③大仏

そして上記の刀狩りにより集められた武器は、大仏を作るための材料になった。これが京都の方広寺大仏殿である。

この大仏は木製だったが、完成の際に千僧供養という名目で各宗派の僧侶を方広寺に集めさせた。

じつは、このあたりが一番重要な点だ。日本仏教は16世紀の終わり頃まで、熾烈な宗派間対立が存在。僧侶は武蔵坊弁慶のように武装しているのが当然で、いざとなれば戦闘に参加していた。現代はともかく、かつては「異教徒は皆殺しにして構わない」のが日本仏教の発想だったのだ。

だが織田信長の比叡山焼き討ちをきっかけに、宗教勢力は武力を放棄するようになる。そしてその最終仕上げとして、「各宗派が同一の法典に参加」を秀吉が企画。

この千僧供養は、日蓮宗不受不施派を除いたほとんどの宗派が出席した。もしそれを拒めば、本山は焼き討ちに遭う。つまり秀吉は、日本国内の宗教戦争に終止符を打ったのだ。


このように、豊臣政権下で実行された政策は戦国の気風を消し去るためのもの。そして我々現代人も、秀吉が舗装した道の上を歩いている。

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(取材・文/しらべぇ編集部・澤田真一

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