【真田丸】名は武士の命 「幸」の一字に秘められた思いとは

2016/09/25 05:30

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※画像はNHK公式サイトのスクリーンショット

先週放送の『真田丸』では、大泉洋演じる真田信幸がついに「信之」になった。

真田家生き残りのため、代々受け継がれてきた「幸」の字を捨てたのだ。これは本人にとって、血の涙を流すほどのつらい決断だったに違いない。

武士の諱は、適当につけられるものではない。たとえば伊達政宗の「宗」も先祖代々のものであるし、そもそも「政宗」自体が南北朝時代の偉大な先祖にあやかってつけられたもの。

名は誇りである。そう簡単に捨てられるものではない。



 

■「幸」の字の復活まで

だからこそ、江戸時代以降の真田家は「幸」の復活を模索し続けた。

その念願は、17世紀後半に成就している。真田松代藩第3代当主の真田幸道の時代だ。

彼は大規模なお家騒動の末に登場した藩主。真田信之があまりにも長生きしたのと、信之の子が2系統に分岐したため後継者争いが勃発したのだ。

幸道は文武に秀でた聡明な人物だった。もし戦国期に生まれていても、信之や幸村に劣らない活躍を見せていただろう。「徳川家への反抗心を忘れない」真田家のDNAを、しっかり受け継いでいる。だからこそ「幸」の字を復活させた上、彼は長男に「源次郎」という名を与えた。源次郎とは、幸村と同じ名だ。


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■真田家に課された負担

だがそのツケもあった。徳川幕府は、真田家に苦しめられた過去を忘れたわけではない。公共事業を次々に押しつけ、松代藩を借金漬けに追い込んだのだ。

徳川幕府は中央での発言力のある親藩大名よりも、そうではない外様大名に大きな石高を保証していた。権力と財力を分離させたのである。だがそれは言い換えれば、外様大名を金庫か財布のように扱ったということ。

鹿児島県民なら誰しもが知っている「宝暦治水事件」のようなことが、江戸期を通じて頻繁に行われた。幸道は信之から引き継いだ貯金を、その治世のうちにほとんど消費している。


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■あっさり手放したケースも

このように、武士が名前の一字にかける情熱は計り知れないものがあった。

だが逆に、今まで大事にしていた一字をあっさり捨ててしまうケースも。たとえば徳川家康は、若いころの名前は「松平元康」。これは主君だった今川義元から「元」の字をもらってつけられたものだが、義元が死ぬと躊躇なく今までの名を捨てた。

また、佐賀の大名鍋島直茂も、主君格の龍造寺隆信が生きていた頃は「鍋島信生」。「信」の字を捨てると同時に、直茂は龍造寺家から大名の地位を乗っ取ってしまう。

武将の改名は、まさにその人物の心の中を表現しているのだ。

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(取材・文/しらべぇ編集部・澤田真一

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