【 川奈まり子の実話系怪談コラム】 海霊(よなたま)の人魚【 第五十夜】

2016/11/23 21:00

sirabee1123kawana001

この稿を書いている2016年11月22日の朝、福島県沖を震源地とする震度5の地震が起き、津波警報が発令された。

あのような甚大な被害が再び起きぬように祈りつつ、2011年3月11日の東日本大震災を思い起こさずにはいられない。しかしながら、こうしたときに感じる恐怖や不安の性質は、日本人と他国の人とではずいぶんと異なるようだ。

今朝の地震が報道されたあとでSNSでメッセージを送ってきた海外の友人たちの中には、私の冷静さを大仰に讃えたり、自分なら日本には住んでいられないと一種の皮肉を言ったりする者がいた。

古から日本列島に住まう人々は地震や津波にある意味親しみ、知識を蓄えてきた。そのため、怯え方が傍目には温く感じられるようなことになっているのだろう。

東日本大震災のときには、福島県の浸水線(津波が到達したライン)に沿って神社が建っていることが、震災後の2011年8月、土木調査によって発見された。

神社のわずかに手前で津波が止まったケースが非常に多く、この世のものではない不可思議な力が働いているかのように見えたという。

実際、現地では「津波が来たら神社に逃げろ」と言い伝えられていたと証言する被災者もおり、「ご先祖様が救ってくれた」と感じた人々も少なくなかったという。


しかし、古い神社が、浸水線の際、あるいはすぐ後ろに建立されていることには、合理的な理由がありそうだ。

2011年に被災地周辺で行われた土木調査の結果では、調査した82社の神社のうち、津波によって被害を受けていたのは11社で、それらは慶長、正徳、明治、大正、昭和など、比較的新しく建てられた神社だったという。

江戸時代以前、古いものでは1000年以上も前に建立された神社は、皆、浸水線の内側にあり、すんでのところで津波の被害を免れた。

このことから、過去に津波の被害が出た地域と無事だった地域との境界線の陸寄りの内側に、安全な場所であるということで神社を建てたのではないかと推察できるという説が立てられた。

仙台市の浪分神社や相馬市の津神社など、辛くも被災を免れた神社の来歴やその名の由来から、その仮説を推す意見も郷土史の研究家を中心に複数見られ、それなりに信憑性がありそうだ。


海辺を臨む神社は、人知の及ばぬ海を彼岸、安全な人里を此岸を捉えた、一種のランドマークとして設けられたのかもしれない。少なくとも、そのように機能していたとは言えそうだ。

神社については現実的な解釈が成り立ちそうな一方で、伝説は今も全国の海辺に残っている。

彼岸たる海原から、此岸である集落へ、時折、使者が送られてくるというのだ。

使者の多くは、半人半魚の姿を取り、伝説はしばしば天災と関係する。


まずは、今朝、津波警報が出た福島県の人魚伝説から――。


《福島県双葉郡浜通りに住まう漁師の浜吉は、ある日、網で人魚を捕らえた。人魚は弱っているようすで、哀れに思った浜吉は、自分の舟で休ませてやった。人魚はやがて元気を取り戻し、海へ帰っていった。

その後、嵐の夜に、浜吉の家を見知らぬ女が訪れた。女は行くあてがないと話し、浜吉は泊めてやることにした。これがきっかけで二人は夫婦になったが、女は、嫁になるにあたって、浜吉に、入浴している姿をけっして見るなと言い、これを約束させた。

一緒に暮らし始めてみれば、嫁は海の理に通じていて、嫁の助言に従って浜吉が網を打つと、きまって大漁となり、浜吉はみるみる豊かになった。

これを妬んだ網元が、浜吉に、おまえの嫁は竜宮の使いで人間ではないと言い、魚の尻尾が生えているから風呂に入っているところを見てみろとそそのかした。

浜吉は、つい、嫁との約束を破って、嫁が風呂に入っているところを覗いた。

すると、嫁は、いつか浜吉が助けた人魚だった。

途端に大嵐がやってきて、人魚は荒れ狂う海へと帰ってしまった。》


どこかで聞いたような話だと思われたのでは? 人魚を鶴に、風呂場を機織り部屋にしたら、「鶴の恩返し」にそっくりである。これは「見るなのタブー」と呼ばれる伝承のパターンで、日本のみならず世界各地に存在する。

しかし、福島の人魚伝説には、他の「見るなのタブー」には無い、「予言」と「天災」という要素が付け加わっているのだ。


予言する人魚というと、「神社姫」を想起せずにはいられない。神社姫は竜宮の死者と言われる一種の妖怪で、二本の角と人の顔を持つ全長2メートルの魚の化け物であり、江戸時代中期の医師、加藤曳尾庵の『我衣』に記述されている。

神社姫はコレラの流行を予言したという。「吾妻鏡」や「本朝年代記」によると、宝治元年(1247)に、青森県にも似たような大きな魚の化け物が現れて、戦乱の予兆だとされた。

当時の庶民にとってみれば、疫病や戦も天災のようなものだと言えたのではないか。

しかし、紛れもない天災にまつわる予言する人魚の伝説も、他にもある。


沖縄県石垣市の、石垣島にある川平湾というところには、珍しい人間の子供を抱いた人魚の像が建っている。

2007年頃からつい最近までの十年近くの間に、私は家族で石垣島をはじめとする八重山諸島を度々訪れてきており、川平湾のすぐ近くの宿に滞在したこともあって、そのとき人魚の像も目にしている。母子像かと思いきや、子供の方には普通の人間の足が生えており、片や母親の方は腰から下が魚で、不思議な像だなぁと思ったという記憶がある。

なぜ人魚が人間の子供を抱いているのか? 正確なところはこれを造った彫刻家に訊いてみないとわからないが、この地にまつわる、人魚の予言によって人が守られたという伝説にルーツを求めることが出来そうだ。


《石垣島の東北部に、かつて野原村(のばるむら)という美しい村があった。村の住民は畑を耕したり海で漁をしたりして、平和に暮らしていた。若者たちは夜になると海辺に出て、酒を飲み、歌や踊りに興じた。

ある晩、村の若い漁師たちがいつものように浜辺で集っていたところ、遥かな沖から、澄んだ女の歌声が聴こえてきた。

それからは夜に海辺に行くと、たびたび、この歌声が聴こえるようになった。しばらくして、月がことのほか明るい晩に、村の若者三人がサバニ(舟)を出して、漁に出た。

海は凪いで、波は無く、面白いほど魚が捕れた。夢中で漁をしていると、大物の手応えがあり、大喜びでそれを引き揚げてみたところ、それは魚ではなく人魚であった。

上半身は美しい女だが、下半身は魚で、若者たちは色めき立ち、さっそく村に持ち帰って皆に見せようとしたが、人魚は泣いて海に帰してほしいと訴えた。

若者たちは迷ったが、人魚が哀れでもあり、放してくれたら海の秘密を教えると言ったことがあって、海に放した。

すると人魚は若者たちに感謝して、明日の朝、恐ろしい津波が来ると告げた。

人魚が去った後、若者たちはこの話を自分たちの野原村と、隣の白保村の住人たちに話した。

野原村では、皆が人魚のお告げを信じて、家財道具を持って全員が山の上へ逃げた。

白保村では、馬鹿馬鹿しいと言って、誰も取り合わなかった。

やがて夜が明けた。山頂から海を見下ろす野原村の人々の目の前で、どこまでも遠く、潮が引いていった……かと思うと、水平線に真っ黒な雲のようなものが湧きあがって広がり、轟音と共に浜に押し寄せてきた。

見たこともない大津波だ。濁流が瞬く間に村を呑み、すべてを押し流していくさまを村人たちはなすすべもなく見守った。

こうして、人魚のお告げを信じた野原村の人々は助かった。しかしお告げを信じなかった白保村の人々は、皆、命を落としてしまったということだ。》


明和の大津波の原因は、1771年4月24日(明和8年/旧暦3月10日)午前8時頃に、石垣島の南南東沖35キロ付近を震源とする、八重山地震と呼ばれる地震である。

琉球大学理学部の研究によると震源地のマグニチュードは8~8.7程度とされ、石垣島では震度4で、震動による被害はあまりなかった代わりに、最大遡上高30~35メートルの津波に見舞われた。

津波は三波も来襲し、石垣島を含む八重山諸島と宮古島に甚大な被害を与えた。その死者行方不明者合わせて1万2000人。

ことに八重山諸島の被害は凄まじく、死者約9400人、生存者18607人で、14村が壊滅し、3分の1の住民が死亡したという。


民俗学者の柳田國夫は、著作『故郷七十年』の中で、津波を「海嘯(かいしょう)」と書いた。同書に収録されている『ヨナタマ(海霊)』は、明和の大津波と人魚の話だ。

「「宮古島舊史」に記録されてゐる話」と前置きして始まる、伊良部島で起きた出来事だという。抄訳すると、それはこんな話である。


《伊良部島の沿岸部、下地といふ村でヨナタマが釣れた。ヨナタマは人の顔を持ち、人語を喋る魚だと言い伝えられていた。釣った漁師は、ヨナタマを保存して人々に見せようと思い、ヨナタマを炭火で炙ることにした。

その晩、漁師の家の隣の家に泊まっていた子供が、夜遅くなって急に大聲で泣きはじめ、自分たちの村へ帰ろうと言い出した。内陸部の伊良部村から母子で下地村を訪ねてきていたのだ。母親は夜中だからと子供をなだめようとしたが、子供はますます泣き叫ぶばかり。

とうとう母親は子供を抱いて、表に出た。なぜか子供は母親にしがみついて震えている。どうしたのだろうと母親が怪しんでいると、遠い沖の方から、「ヨナタマ、ヨナタマ、どうして歸りが遲いのか」と呼ぶ声がした。

すると隣家の炭火の上で炙られているヨナタマが、「今、炭火の上にのせられて半夜も炙り乾かされているのだ。早く迎えをよこしてくれ」と、この声に答えた。

母親は驚いて恐ろしくなり、伊良部村に帰った。

翌朝、昨晩の下地村へ行ってみると、村は跡形もなく、母子は自分たちだけが災難を免れたことを知った。》


……川平湾の人の子を抱いた人魚像を思い浮かべてしまった。ひょっとすると、彫刻の作者は柳田國夫のこの話を読んだことがあったのかもしれない。

柳田國夫は、この伝説の紹介に続いて、「ヨナタマの罰を受けて村中が流されてしまつたといふのは、ヨナタマは海靈ですなはち海に神の罰を受けたといふことで、このヨナタマからヨナが海といふ言葉と同じではなからうかと思ふのである。」と記している。


今回、昔の民話や伝説ばかりで、ここまでのところ少しも怪談らしくない。これで終わりというのも、怖い話を期待している読者さんに申し訳ないので、最後にひとつ、怪談らしい実話を披露したいと思う。

1989年頃、当時22歳だった私は、タイのプーケット島にある小洒落たホテルに滞在していた。大きなリゾートホテルとは違う、数室しか部屋がない隠れ宿的な所で、まだ新築といってもよく、設備が整って清潔だった。

しばらくするうち、隣の部屋に泊まっている女性に、私は注目するようになった。

20代半ばぐらいで、たいそう美人で、全身から色気を発散しており、常に年輩の男性と一緒にいる。娼婦だとしたら、それなりに高級そうな……と思っていたところ、ある日、海辺で水死体に遭遇した。

私はダイビング教室の帰り道だった。教室の仲間が前方を指差して騒ぎ出し、何かと思えば、肥満した男性の遺体が砂浜に打ち上げられている。

すでに死んでいることは明らかで、肥って見えたのは、ガスが充満した腹がふくらんでいるためだった。舌を飛び出させ、濁った眼を開いた顔は見るも無残だったが、生前の面影はあり、同宿のあの美人の連れのようだと思った。

しかし無責任なことも言えず、私はその場を立ち去ったのだった。

その晩遅く、ホテルのプールから女の嬌声が聞こえてきて、なんだろうと思って窓から見れば、例の美人がいつもの男性と戯れていた。

亡くなったのは別の人だったのだ。考えてみれば、死体があんなふうに膨らむまでには何日が要るのではなかろうか。なんだ勘違いだったか、と思ったが、翌朝、ホテルの主人から「昨日、客が海で死んだ」と聞かされた。

詳しく話を聞いてみると、やっぱり、あの美人の連れの男性が海で事故死したということで、遺体があがった場所なども私が見た所と符合し、間違いない。

けれども昨晩、プールで遊んでいるのを見掛けたのだが。

いつも一緒にいた女性はどうしたか、ホテルの主人に訊ねると、顔をしかめて答えない。娼婦か行きずりの女だったのだろうか。公然と話すのは憚られる事情のある女性だったようだ……。

不思議なこともあるものだと思っていたが、それから5年ほどして、神奈川県鎌倉市に住んでいた頃に、男の知人にこれを話したところ、彼は似たような体験があると言って、こんな話をしてくれた。

沖縄の離島のリゾートホテルで見掛けたカップルの、女の方が東洋系の外国人で途轍もない美人であり、視界に入るたびに目が吸い寄せられてしまう。気にしていたら、同じホテルに宿泊しているようだとわかった。そのうち、男の方が海難事故で亡くなり、たまたま遺体が発見されたところに自分も居合わせた。

間違いなくその男だったのに、その夜、連れだって歩く例のカップルを見て、不思議な感じがしたが、勘違いで済ませることにした。

――ここまでは場所がタイト沖縄と違うだけで、そっくりな話である。

私がそう言うと、彼は「でも、僕の方には続きがある」と言った。

「翌日、たまたまバーでその美人に会って、僕は彼女とデートすることになった。誘惑されたというよりも、そばに立たれたらもう、たちまち強く惹きつけられて、僕はすぐに死んだ男のことなんか忘れてしまった。彼女とはすぐに大人の関係になったけれど、どういうわけか、ホテルの僕の部屋には泊まらない。午前零時を回った真夜中でも、ふと目を離した隙に帰ってしまう。

僕はそれがとても切なくて、誰か他に男がいるんだろうと疑心暗鬼になった。

それで、夜、海辺に行ったときに、彼女を問い詰めた。

すると彼女は海の方へ逃げた。服を脱いで真っ暗な海に入っていこうとするから、危ないよと言って、僕は追い掛けた。

彼女は沖へ向かって泳ぎ始め、僕は必死で追おうとしたのだけれど、波が意外に高くて溺れそうになり、何がなんだかわからなくて、気がついたら、波打ち際で仰向けに倒れていた。

最初に目に入ったのは夜空で、次に、彼女の顔が……這いよってきて、僕の顔をさかさまに覗き込んだ彼女の顔が、目の前いっぱいに広がった。

彼女は目が合うと笑顔になった。

でも、その唇の間から覗いた歯が、全部尖っていて、まるで鮫みたいだった。

しかも、見れば、歯だけじゃなく、全身がなんだか変わっていて、いわゆる人魚姫の人魚とは違うんだが、魚っぽくなっている。

僕は悲鳴をあげた。すると彼女は、濡れた両手でもって、僕の体をがっちり捕まえて、すぐに海の方へ引きずっていこうとした。なんとか逃れようとしてもがいているうちに、頭から波をかぶって水を飲んでしまい、僕はまた気が遠くなった。

そこへ偶然、人が通りかかった。大声をあげて駆け付けて、僕を助けてくれた。

その人には、僕が独りで波打ち際でジタバタしているように見えたそうだよ。意識がはっきりしたときには、彼女の姿はどこにもなかった。彼女が着ていた服すら消え失せていた。

あれから何年か経つけれど、どこからかは溺れかけたときに見た夢に違いないと思う半面、ではどこから夢だったのかと考えると、考えれば考えるほどわからなくなる。

誰も通りかかってくれなかったら、あのまま溺れ死んでいたことだけは確かだと思うけれど、それ以外は、僕にとっては今でも不思議なままなんだ」

死んだと思った男性が、遺体が見つかった翌日の夜に彼女とデートしているのは、どういうことだと思うかと訊ねたら、彼は何かを想い出す眼差しになりながら、こう応えた。

「死ぬとようやく、一晩中ずっと一緒に過ごしてくれるようになるんじゃないか?」

・合わせて読みたい→【川奈まり子の実話系怪談コラム】堀田坂今昔【第三十八夜】

(文/川奈まり子

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