【真田丸】大坂の陣を生き延びた?3人の豊臣関係者とは

2016/12/11 11:30

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(画像はNHK公式サイトのスクリーンショット)

大坂の陣は「何が何でも豊臣を潰さなければ」という徳川家康の思惑により始められた。

だからこそ、そこに容赦はない。豊臣家に最後まで味方した牢人衆は、徳川方に見つかり次第殺されたのだ。

また、豊臣秀吉が建てた大坂城は一度完全に埋められたのち、その上に徳川大坂城が新たに建てられた。すなわち徳川としては、「豊臣の記憶」を完全に消し去りたかったのだ。

ところが、夏の陣の修羅場にありながら生き延びた(と言われる)人物も存在する。


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①大野治房

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(画像はNHK公式サイトのスクリーンショット)

まずは、大野治房。

大野治長の弟で、大河ドラマ『真田丸』では元キックボクサーの武田幸三が演じている。

作中では無断で蔵を開けて金銀を強奪するなど、「出来の悪い弟」ぶりが話題に。牢人衆との連携を無視した行為は、豊臣家を滅ぼす一因となってしまう。

だが、当の治房はどうやら夏の陣で死ななかったようだ。

「ようだ」というのは、彼のその後について書かれた史料に温度差がありすぎて、どれが本当か分からないため。「捕縛ののちに斬首された」記録もあれば、「とある家に匿われた」記載も。

どうやら江戸幕府ですらもそのあたりを把握していなかったらしく、徳川秀忠の治世の頃に治房捜索が実施されたという。

いずれにせよ、徳川方の重臣は誰一人として治房の亡骸を目撃していない。つまり、彼がその後を生き延びた可能性は十分にあるのだ。


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②明石全登

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(画像はNHK公式サイトのスクリーンショット)

キリシタン牢人・明石全登の生存説も有名だ。『真田丸』では小林顕作が演じている。

元国連事務次長の明石康氏は、この全登の子孫ではないかと言われている。江戸幕府の落武者狩りから逃れるうちに今の秋田県あたりに定着した説だ。

これを裏付ける史料はないが、逆に「明石全登は間違いなく大坂夏の陣で死んだ」決定的証拠もない。

いくつかの史料には「全登の討死」が書かれているが、一方で彼の生存を伝える史料も多いのだ。このあたり、先の大野治房と似ている。

治房も全登も、「無名の牢人」どころか「有力武将」。そんな人物の最期が幕府の公式記録にもないこと自体が不自然である。

やはりこれは、ふたりとも「大坂から逃亡した」と捉えるべきなのだろうか。


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③竹林院

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(画像はNHK公式サイトのスクリーンショット)

武将ではないが、真田信繁の正室の春(竹林院)は相当に長生きをしている。

『真田丸』では松岡茉優が演じ、動揺すると障子を破いてしまう行為がネット上でも評判になった。だが、春のその後は巷ではあまり知られていない。

大坂夏の陣ののち、春は全財産を没収されるが命だけは助かり、剃髪して仏門入り。ここから「竹林院」と名乗るわけだが、彼女の没年は1649年。

生年は分かっていないものの、信繁との婚姻の時期を考えると70年は生きたはずだ。

当時の70歳は現代の100歳にも等しい長寿だから、まさに彼女は「豊臣方の生き証人」だったのだ。


以上、「大坂の陣を生き延びた豊臣方の人物」を取り上げた。

そして上記の3人ほど著名ではない牢人たちの中には、本当に国外逃亡してしまった者もいる。そうした落武者が東南アジア各地で日本人街を作り、現地の歴史に爪痕を刻んでいくのだ。

タイ王国のアユタヤは有名な観光都市でもあるが、かつてここには日本人街があった。主君を失った武将や隠れキリシタンなどが亡命し、コミュニティーを形成。

彼らの足跡は、今も風化することなく残っている。

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(取材・文/しらべぇ編集部・澤田真一

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