川奈まり子の実話系怪談コラム その肌、ちょうだい【第十夜】
川奈まり子氏による「実話系怪談」連載。
思い出したくない出来事のひとつに、こんなのがある。
「ねえ。その肌、ちょうだい」
そう言われて振り向くと、そこに真っ白に塗られた女の顔がある。分厚い化粧の下の肌は吹出物でびっしりと覆われている。両端に黄色い膿が乾いて固まった唇が、開く。
「欲しい」「羨ましい」「いいなぁ」「ちょうだい」
十年近く前のことだ。新宿で、デパートのトイレに行ったついでに鏡で髪を整えていたら、隣の洗面台で手を洗っていた人が、いきなり話しかけてきた。
「お肌が綺麗ですね」
――最初にことわっておくが、私はそれほど肌が綺麗な方ではない。
肌理が細かいわけでも色白なわけでもなく、やや赤ら顔で、のぼせやすくて汗かきだから鼻の頭などは年中テカっており、強いて言えばニキビなどの肌トラブルがほとんど無いことが取り柄ぐらいのものである。
「いえ、そんな……」と私は困惑した。「普通ですよ」
女性は、まばたきもせずに、じいっと私の顔を見つめたまま、首を横に振った。
「ううん! とっても綺麗。私も、そういう肌が欲しい」
欲しい――その一言で、私は少し気味悪くなった。普通は、「私も~だったらいいのに」とか「~になりたい」と言うものだろう。
それに、彼女は異様に厚化粧で、肌を真っ白に塗っていた。しかも、よく見ると、白い化粧の下の肌が、一面、吹出物に覆われていたのだ。
「あなたみたいな肌が羨ましい」
私は後ずさりし、それと同時に、高校生の頃のあることを思い出していた。
通っていた女子高の一学年上の先輩で、顔立ちはとても整っているのだけれど、ニキビの目立つ人がいた。
仮に佐藤さんとしておく。ニキビが目立つと言っても、ニキビが出来ている女子高生なんて、そういう年頃なのだから珍しくもなんともない。
けれども、佐藤さんはたいへん気にしていたようだ。いつもファンデーションを厚塗りして素肌を隠していた。化粧をしている子がほとんどいない学校だったので、皮肉なことに、そのせいで佐藤さんは目立ち、よけいにその肌に注目を集めてしまっていたのだが。
高一の3学期の終わり頃、部活の途中でトイレに立つと、鏡の前に佐藤さんがいて、化粧を直していた。鼻先が鏡につくほど顔を前に突き出し、ぐいぐいとファンデーションをスポンジで頬に塗り込んでいる。
私は見てはいけないものを見てしまったと思い、そそくさと個室に入った。用を足して出ると、まだ佐藤さんは同じ場所で化粧の続きをしていた。
目を合わさないようにして手を洗い、立ち去ろうとした――そのとき、
「ねえ。その肌、ちょうだい」
と佐藤さんが言った。トイレには佐藤さんと私しかいない。仕方なく振り向くと、佐藤さんは大きく目を見開いてこちらを向いていた。
「あなた1年の子でしょ? いいな。その肌」
「いえ、そんな……」
「触ってもいい?」
「えっ?」
佐藤さんは私に近づき、手を伸ばしてきた。黒々とした瞳が間近に迫る。近すぎる。ひどく荒れた、佐藤さんの肌も。凹凸した夏蜜柑の皮のような表面のところどころが破れ、黄色い汁が滲んでいる。
膿と化粧品が入り混じった、厭な臭いも漂ってきた。私は思わず顔をそむけた。すると――佐藤さんが半開きにした唇から「ほぉっ」と溜息をついた。
「私っ、部活に戻らないといけないのでっ! 失礼します!」
私は飛び上がって、逃げ出した。細い声が追い掛けてきて、私の背中に纏いついた。
「……いいなぁ」
――回想から覚めても、その見知らぬ女性はまだ目の前にいた。
デパートの女子トイレだ。あのときのように、私たち二人きり。まんべんなく吹出物に覆われた肌。真っ白に塗りつぶした、その顔。誰かに似ている。私は彼女を知っているかもしれない、と、ふと思った。
先輩の佐藤さん? いや、違う。もっと最近会ったことがある人に、よく見れば瓜ふたつだ。
AV女優だった頃、共演した女の子にも、こういう肌の子がいた。とても可愛い顔立ちだったっけ。造作は完璧だったのだ。私より5つぐらい若かったから、当時、27、8歳だったろう。
「川奈さんは、どうして肌が綺麗なの?」
「全然、綺麗じゃないよ」
「でも、ひとつもブツブツができてませんよね」
「それはたぶん、撮影のとき以外、お化粧しないからじゃないかしら?」
後から思えば、あのとき私は残酷なことを言った。私は、ただただ、無神経だったのだ。だからつい、まったく悪気なしに、あんなことを。
――この人は、彼女に似ているような気がするけれど、そんなはずはない。
なぜなら、あのAV女優は鴬谷駅で電車に飛び込んだのだから。私と共演してから3年ほどしてAVから引退し、以前勤めていた風俗店に再入店しようとしたという。そして店側から断られ、絶望して、自殺してしまったという噂だ。
なぜ雇ってもらえなかったのかは、わからない。年齢のせいか。その頃、裸商売の世界では、もう若いとは言えなくなっていたはずだから。それとも、肌が、いけなかったのか。私が原因だとは思いたくない。
でも、私のように自覚なしに彼女を傷つけるような人間たちは、きっと大勢いたことだろう。それが彼女を死に追いやったのだとしたら、私にも責任の一端があることにはなりはしないか?
彼女が蘇って、この新宿のデパートの女子トイレに来た? そんな馬鹿な。他人の空似だ。その女性は、いつの間にか、私のすぐそばまで近づいてきていた。
あの日の佐藤さんのように。手を伸ばせば、私の顔に触れるくらい。まだ憶えている。頬に触れた指先が、氷のように冷たかったこと。私は焦った。
「私なんてダメですよ。ちゃんとお手入れしてる人は、もっと綺麗でしょう」
「私もお手入れしてるんですよ!」
――突然の怒りに触れ、私は後悔した。うかつだった。また失敗してしまった。傷つけるつもりはなかったのに。どうか、そんなに嘆かないで。
「何をしても良くならないの。だから……」
その肌、ちょうだい。
私は走ってその場から逃げ出した。彼女が、そう言うのではないかと思ったのだ。高校の先輩の佐藤さんのように。電車に飛び込んだあの元AV女優が、私の肌を奪おうとしている。
そんな馬鹿な妄想に、私は怯えた。デパートの通路を闇雲に逃げる私を、記憶の中の声が追い駆けてきた。
「いいなぁ」
そして去年の夏。有名なお化け屋敷プロデューサーの五味弘文氏が手掛けた新しいお化け屋敷の広告を見て、私は震えあがった。
『あなたの顔、ちょうだい』
タイトルは『顔はぎの家』。
吹出物に悩む主人公の女性が、悪い友人に騙されて毒入りの白粉を顔につけて、よけいに肌が爛れてしまい、それを隠そうとしてさらに白粉をつけ、ますます吹出物が悪化してやがて醜く変貌し、婚約者に捨てられてしまう。
その後、彼女は、すべてが婚約者に横恋慕した友人の策略だったことを知り、友人の顔の皮を包丁で剥いで復讐して、自らも命を断つ。そして怨霊と化し、美しい女の顔を求めて、夜な夜な街を彷徨う――。
その夜は、当然のごとく悪夢にうなされた。吹出物。化粧で隠す。自殺。そして「ちょうだい」。
こういう偶然は、怖い。何かの予兆のような気がして。
(文/Sirabee編集部)