川奈まり子の実話系怪談コラム 七人目の看護婦【第十三夜】
川奈まり子氏による「実話系怪談」連載。
とある廃病院スタジオで起きた話をしようと思う。私は当時AV女優で、6人いるナース役のうちの1人だった。
2002年頃のことだ。私はデビューから3年目のAV女優で、企画系と単体系、両方のAVに出演していた。つまり、ただ1人の主演女優をするときもあれば、一山幾らの脱ぎ役になるときもあった。
意外に思われるかもしれないが、一山幾らの役で出ることが私はむしろ好きだった。
企画モノに出演するAV女優の大半は、百戦錬磨のツワモノで、それでかえって蛸部屋ならぬ共同控室の雰囲気は、至極、和やかなものになる。
これが単体モノだとこうはいかない。控室を独占できる贅沢は、男たちの群れの中にいるただ1人の女としての孤独と裏腹だし、1人2人の共演女優がいればいたで、ライバル視のビーム光線や嫉妬のトラップに悩まされることが少なくなかった。
その日の撮影は企画モノだったので、私はリラックスして臨んでいた――たぶん、下は20歳、上は35、6のAV女優たち全員がそうだったと思う。
朝7時20分に渋谷駅東口前の交差点で集合して、7時半にはマイクロバスに乗り込んだ。
桜がもうじき咲くかという春の日和、東京近郊へ向かうマイクロバスの車中はちょっとした遠足気分だった。男女合わせて20人あまり乗っていただろうか。その過半数が出演者で、ほとんど皆、顔見知りと言ってもよかった。
AV女優は6人いた。私たちは持参したキャンディやガムを交換し、世間話に花を咲かせた。たわいのない話ばかり――最近ハマっている美容術、愛猫のこと、愛犬のこと、行ってみたいレストラン、次のオフ日の予定等など。
そうするうち、1時間も経たず、撮影現場に到着した。
撮影内容が事前に知らされていたので、廃病院の駐車場にマイクロバスが入っていっても驚かなかった。病院を舞台にしたドタバタタッチのコメディタッチのポルノを撮るには、本物の病院の建物を使った方が当然良い。
また、廃病院によっては部屋数が多いことから、中の何室かを学校の教室風やレストラン風に改装することも可能で、機材の搬入に便利な広い駐車場も備わっている。ことによると庭や屋上などもあって、さまざまなシチュエーションの撮影に対応できることから、たいへん重宝なハウススタジオになるのだ。
全国各地に廃病院スタジオなるものが点在している所以である。
ちなみに、そのときの廃病院スタジオが今どうなっているか調べてみたのだが、数年前に持ち主が元のスタジオ管理会社から宅地開発やマンション分譲で有名なデベロッパーに変わって、とうにスタジオ営業を止めていた。
現在は、跡地にマンションが建てられているかもしれない。
ともあれ、あの日、私が訪れたハウススタジオは3階建ての鉄筋コンクリートの建物で、ガラス扉のエントランスから、合皮張りのベンチが並ぶ1階の廊下、薬臭い診察室に至るまで、昔日の面影が残っていた。
私たちAV女優が最初に通されたのは3階の一室で、隣の部屋がそうであるように、元は数人の入院患者が相部屋する広い病室だったようだ。
しかし、隣の病室とは異なり、この部屋からはベッドなどは取り払われていた。
そして、代わりに部屋の一角に高さ40センチほどの台を据え付けて上に畳を乗せ、場違いな4畳半のスペースを出現させているのが、唐突と言えば唐突な印象、スタジオらしいと言えばスタジオらしい景色になっていた。
4畳半には、春だというのに不精たらしく炬燵が置かれ、炬燵の周りにはさあ座れとばかりに座布団が何枚か敷かれていて、いかにも快適そうに見えた。
私たちはてんでに靴を脱いで台に上がり、さっそく炬燵を囲むことになった。
気が効く制作スタッフがいて、少しすると山盛りの蜜柑を持ってきて、これでそばにテレビがあったらまるで昭和風のお茶の間という状況、そうでなくとも和やかな雰囲気はますますくだけて、撮影が始まる頃には座布団を枕に眠りはじめる者まで出た。
バスルームは3階の奥のを使い、着替えは4畳半のある部屋の空きスペースでするようにとのことだった。
4畳半の台以外のスペースは病院らしいリノリウムの床張りで、天井の8ヶ所に、各病床を仕切っていたカーテンレールがあった。端の窓際の1つだけはカーテンが残されていて、説明を受けなくても、そこのカーテンを引いて更衣室がわりにしろということだろうと察しがついた。
けれども、なぜかほとんど皆、目隠しになるものが無い四畳半で着替えたがった。裸を人目に晒すことに馴れ切っていたせいもある。
ただ、私は、白いカーテンで閉ざされた四角い空間に試しに入ってみたとき、その場所の独特の空虚さをとても厭なものに感じたことを憶えている。他の五人のAV女優もそうだったのではないか。
そこにあった入院患者のベッド、見舞い客が腰掛けたスツール、小さな冷蔵庫、そういう、あって当たり前の物が無い。だからこそ、それらが生々しく想像できた。独りでベッドのあったあたりに佇むと、何やらいたたまれないような、申し訳ないようなおかしな気分になったものだ。
私たちにはナース服が配られたが、カメラの前に呼ばれていくとき以外は、制作会社から貸してもらうガウンやスリップを着てくつろいでいた。
撮影は順調で、正午には近所の蕎麦屋から取った丼モノや笊蕎麦が配られ、午後からは袋菓子やペットボトルのジュースやお茶の差し入れが度々あった。
素裸の上にタオル地のガウンなどを着て、電気を入れていない炬燵に足をつっこみ、怠惰な猫みたいにゴロゴロしているうちに、日が暮れてきた。
もちろん、時々は撮影してもらいに2階の手術室や院長室、1階の診察室やナースステーションに行ったけれど、待ち時間の方が圧倒的に長かった。なにしろ女優が6人も居て、一斉にカメラ前に立ったのはパッケージ用の写真を撮るための1回きりで、あとは1人か2人ずつ呼び出されるのだから、そうなって当然だ。
やがて、撮影は終盤に入った。
最後に、1人あたり10分程度で撮影できる、ごく簡単なイメージカットを全員ぶん撮ると言われた。カメラが回りだしたらすぐに衣装は脱ぐことになるだろうという説明を受け、ヘアメイクさんや助監督さんの勧めもあり、私たち6人はナース服をきちんと着て呼び出しを待つことにした。
4畳半で皆して着替えて、ヘアメイクさんにナース帽をピンで留めてもらい、再び炬燵を囲むと、程なくしてADさんが来て1人目を連れていった。
そして本当に10分ぐらいで戻ってきたのだが、なぜだか血の気の引いた顔をしていたので驚いた。普通のようすではなかった。すぐに部屋に入ろうとせず、戸口のところから、私たち偽ナースを1人1人確かめるように見つめている。
部屋の戸口は病室によくあるような引き戸になっていたのだが、その扉の端を掴んでいる指の関節が真っ白だ。
「やっぱり、ここに全員いるよね?」
心持ち声が震えていた。さっそく誰かが「どうしたの?」と声を掛けたが、みんな同じ気持ちだったと思う。
「ねえ、私が撮影されている間に、誰か1階の廊下に行った?」
全員が首を横に振った。
「みんなここに居たよ。いったい、どうしたのよ。何かあった?」
彼女はぎこちなく笑い、4畳半に上がってきた。
「……ううん。きっと私の気のせいだから」
そう言って、隅っこで私服に着替えはじめた。
彼女が着替え終わるのと同時くらいに、2人目の呼び出しがかかった。
「じゃあ、行ってくるわ」
「いいなあ。私も早く終わりたい」
「ホントだよね。次は私にしてって言ってきて……なぁんて冗談だけど」
1日の仕事がもうじき終わるという解放感も手伝い、私たちは陽気に笑い合った――もう私服に着替えた1人目を除いては。彼女だけはうつむき加減で、会話に加わろうとしないのだ。一階で、何か厭なことをされたのかな、と、そのときは思った。
制作会社やAVメーカーのスタッフの中には、AVで食べてるくせにAV女優を蔑む輩がいることもある。たった10分間であっても、何が起こるかわからない。意地悪されたのかもしれないし、体に触られたのかもしれないし……。
傷ついた仲間には優しい沈黙で応えることに慣れている私たちだった。だから1人目の彼女は、誰にも何も問い詰められはしなかった。
ところが、2人目が帰ってくると、その子も蒼白な顔をして、私たちを見たのだった。
「おかしい。やっぱりここに全員いるよね?」
私たちは顔を見合わせた。1人、私服に着替えたから、偽ナースは4人に減っている。
そのとき、私服になっている1人目が、2人目の子の視線を捉え、意を決したかのように、真剣な顔で問うた。
「1階で看護婦さん見た?」
たちまち「何のこと?」「どういうこと?」と大騒ぎになった。そこで1人目と2人目が揃って説明しはじめたのだが――。
1階のナースステーションで撮影が始まるとすぐ、廊下側の窓の外を白いナースがしずしずと横切っていく。
そのナース服は私たちが着ているミニ丈の衣装とは違って、膝が隠れる丈だ。彼女は、漆黒の髪を後ろでひっつめにして、胸にカルテか問診票のようなものを抱えている。
カットがかかって、右手のドアから廊下に出ると、左側の廊下の奥に背中を向けて佇んでいるのが目に入る。1階の廊下の奥の方は、撮影に使っておらず、電気を落としている。暗がりの方を向いて、ただ真っ直ぐに突っ立っている後ろ姿が見える。
――そんなものを見たというのだ。
思い浮かべるものは1つだったが、好んで怖がりたがる者はいなかったので、
「ADの誰かが、余った衣装を着てるんじゃない?」
「ああ、それだ! いかにもやりそうなのがいるじゃない!」
「Tくん?」
「そうそう! あの子、笑いを取ろうと思って、いつもヘンなことするんだよねぇ!」
と、こんな調子で、ひょうきん者で知られるADのおふざけだと4人がかりで決めつけた。Tは華奢な長髪の若者で、後ろ姿なら女性に見えなくもない。
すると、そこへ、件のAD、Tさんがやってきた。脂じみたTシャツにデニムのズボン。ナース服など着ていない。
「次は○○さん。1階に来てください」
呼ばれたAV女優は毅然として立ちあがり、4畳半の台を降りると、私たちを振り向いた。
「誰がやってるか、見てくるから」
気丈な子だった。
が、帰ってきたときには複雑な表情を浮かべていた。
「おかしいな。スタッフは全員、Tくんも含めて、ナースステーショーンの中に集まってたのよ。それに長い黒髪のナースなんて、川奈さん以外いないよね」
「私? 私はずっとここに座ってたわよ」
3人目は黙り込んで、観察する目で私を見た。
「……川奈さんより小柄だったような気がする。それに、確かにナース服が本物っぽかったかもしれない」
すぐにまたTさんが来た。名前を呼ばれた4人目は、小さな悲鳴をあげた。
「やだぁ!」
Tさんが目を丸くした。
「なんで? 超簡単なイメージカットなのに」
そこで私たちは、謎の看護婦について彼に話した。Tさんは引き攣った笑みを浮かべた。
「それはきっと、メイクのMさんじゃないかな?」
「Mさんはナースステーションの中にいましたよ」
「じゃ、ちょっと廊下に出てたんですよ。電話を掛けてたんじゃない?」
「あのナースは電話なんて掛けてなかった」
「2回も電話掛けに出たっていうの?」
「それに、さっき見たときは朝と同じ格好してたよ」
一斉に反論され、Tさんは「弱ったな」と言いたそうな顔をした。
「とりあえず、行きましょう。監督に怒られるよ?」
このままグズグズしていたら、真っ先に監督に叱られるのは彼に違いなかった。
「わかった。行くよ」
心優しい4人目が呟いた。
「でも、怖いなぁ……」
これで、残る偽ナースは私と、あともう1人だけになった。
4人目も5人目も、すっかり青ざめ、泣きそうになりながら戻ってきた。
ついに私の番だ。Tさんの背中を見ながら階段を降りた。1階につくと、恐る恐る廊下の奥を覗き込んでみずにはいられなかった。
――誰も居ない。明かりを点けていない廊下の突き当たりが暗がりに呑み込まれているだけで。
「川奈さん、こっちこっち」
促されて、ナースステーションに入った。照明機材と反射板とで室内全体が煌々と白く輝くように照らされていて、廊下とは対照的なその明るさに安堵を覚えた。
すぐに撮影が始まった。カメラ目線で、セクシーにナース服を脱いでいくだけの簡単なカットだった。台詞も無く、カット割りもほとんど無い。
ただ、ビデオを撮影し終えると、表四や宣伝用に使うためのスチール写真を撮りたいからと言われて、ほんの1、2分、待たされた。その間に私は何気なくナースステーションの窓の方を向いて――見てしまった。
白いナース服の看護婦が、窓の右端から現れて、左の方へ歩いてゆく。
落ち着いた歩調だ。姿勢が良い。横顔にはこれといった特徴はない。どこにでもいそうな、可も無いかわりに不可も無いといった地味に整った顔立ちだ。髪は、耳を出して後ろにきつく引っ張り、うなじの上でゴムで結わえている。真っ直ぐな黒髪は、そう、たしかに私に似ている。そこだけは。
しかし長く観察する暇もない。彼女は、何か目的を持って歩いているようで、立ち止まらなかった。胸に抱えている薄くて四角いものは、カルテか問診票か何かだろう。
3、4秒で、窓の左端に姿が隠れて、目で追えなくなった。
スチール写真の撮影も、短かった。
「おつかれさまでした! 誰か3階に行って、女優さんたちに下に降りるように言って。川奈さんは急いで着替えて」
ハイと返事をして、廊下に出た。写真撮影の間は、ナースステーションを出るときに左の方だけは見ないようにしようと思っていた。
しかし、いざその瞬間になると、急に怖いもの見たさが心の底からせり上がってきた。そして、階段の1段目に足を掛けるところで、とうとう我慢の緒が切れた。
白い看護婦は、ナースステーションの先で凍りついたように立ち止まっていた。結んだ髪の束が、うなじから背中に垂れている。私より一回り小柄な、ほっそりとした後ろ姿だ。
彼女が向いている方には廊下が長く伸び、先へ行くほどに暗くなり、どん詰まりには闇が澱んでいるばかり。
今にも振り向きそうだ、と、ゾッとして髪の根が逆立ったとき、階段の上の方からAV女優たちが4人、にぎやかに降りてきた。
皆、和やかにしているけれど、廊下の方から顔をそむけて、足早に私と擦れ違っていく。
「行っちゃうの?」と私は思わず彼女らを呼びとめた。自分でも驚くほど心細そうな声が出た。
「あと1人いるから大丈夫だよ」
私は階段を駆け上がって、あの四畳半のある部屋へ急いだ。息を切らして部屋に飛び込むと、炬燵に鏡を立てて化粧を直していた子がギョッとして目を剥いた。
「なんだ。川奈さんか。脅かさないでよぉ」
「ごめんごめん。あのさ、私、大急ぎで支度するから……」
「うん、わかってる。待ってるよ。独りだと、この部屋も怖いよね。さっき、みんなが行ってからほんの1分ぐらいしか経たないけど、それでもすっごくドキドキしちゃった」
猛スピードで私服に着替えていると、ヘアメイクのMさんが来た。
「衣装とバスタオルを回収しますよ。川奈さん、身支度できた? マイクロバスで、みんな待ってるから」
私は、Mさんともう1人のAV女優と一緒に、廊下へ出た。Mさんが、戸口の横のスイッチを押して、部屋の明かりをパチンと消した。
その途端、私は、畳の上に上着を置いてきてしまったことを思い出した。アッと声をあげて、大慌てで、「上着を忘れた」と口走りつつ、今出てきたばかりの戸を引き開けた。
カーテンで三方を囲まれた四角い空間の真ん中に、そこに無かったはずのベッドのシルエットが浮かんでいた。そして――。
私は目を瞑って四畳半に突進し、靴を脱ぐのももどかしく、土足で畳敷きの台の上に跳び乗ると、しゃにむに自分の上着を引っ掴んだ。即座に方向転換して戸口へ走り、部屋の外へ飛び出して、後ろ手で戸を閉めた。
5人目の偽ナースだった子が、階段を駆け下りていく足音が聞こえた。
「急に走っていっちゃった」
とMさんは怪訝そうに言った。
「どうしたっていうんだろう? 今日はなんだかみんなヘン。何かあったの?」
私は答えることが出来なかった。
――カーテンの陰から7人目の看護婦が出てきた。つかつかとベッドの枕もとに近づいて、そこに佇んだ。暗闇に仄白く浮かびあがるナース服。その真っ直ぐな背中。
彼女は、たった独りで病院の中を彷徨っていたのだろうか。あれから長い時が過ぎた今となってあの姿を思い返せば、恐ろしさより物悲しさが先に立つ。Mさんに問われたとき、信じてもらえるわけがないからとつぐんだ口も、今なら開ける。
(文/しらべぇ編集部・Sirabee編集部)