山手線に跳ねられた志賀直哉が書く、生死を考える短編『城の崎にて』【芥川奈於の「いまさら文学」】

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生きているということと死んでしまうということ、偶然と必然、それらを通して自分の人生を省みるということとは?


 

■あらすじ

山手線に跳ねられた「自分」は養生のために兵庫県の城崎温泉を訪れる。


そこで、「自分」は1匹の蜂の死骸に静かな「死」を感じ、また同じように逃げまどい「生と死」を彷徨う鼠に憐れみと恐ろしさを感じる。


そんな所へ一匹のイモリがやってきて…。

 

■強靭なる肉体が考える生と死

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この作品の主人公「自分」は、勿論、志賀直哉本人のことである。

つまり、「山手線に跳ねられた」という書き出しは事実であるのだ。とある夏の日、本人が涼みに出掛けた帰り道に線路のそばを歩いていたとき、事実山手線にはねられ入院したという記録が残っている。入院で済むなんて、なんという強靭な体であろうか。思わず笑ってしまう。

しかし、大正時代の山手線と現在のそれではスピードが違う訳で、言いかえれば助かっても不思議ではない。が、もし当人が元々体を壊した華奢な人間であったら、この小説は生まれなかったかもしれない。

「生きていることの意味」や「少しの差で死んでしまう恐ろしさ」、その両方は極端ではなく常に背中合わせなのだという教えを与えるこの小説を書くことにいたった筆者の強靭な肉体に感謝しなければならないだろう。


■愛しさと切なさと…?

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登場する3匹の生き物は、どれも小さくて弱い生き物である。蜂、鼠、そしてイモリ。温泉で出くわすこれらの生き物に、筆者は愛を注ぎ、そしてその死に切なさを覚える。

そう、切なさを感じているからこそ、自分が事故に遭っても生きていることを素直に喜べないのだ。だが、この生き物たちが「自分」に教えることはまだある。生きていることを喜べずにいる自分が、逆に「今、生きている」という事実を謳歌させてくれてもいる。それはこれらの生き物が愛おしいという選択がどこかにあるからではないだろうか。

同じ人間同士では教え合えない、心強さというものもあるのだ。


■思わず“二度読み”してみると

「生と死は両極ではない。それでも自分は生きていく」という力強いメッセージの込められたこの作品。その素晴らしさに意気揚々と思わず二度読みしてみると……眠たくなるのだ。どういう訳か、文体や展開が遅く感じ、どこか退屈なのである

これは、日頃から自分がだらけ、生きていることを当たり前と思っている証拠か、はたまた志賀独特ののんびりとした作風のせいか。ここは後者と思いたいところだ、都合良く。

※そんな『城崎にて』が読みたくなったら…

本作は短編なので、出版社によっては名作『小僧の神様』などと共に短篇集に入っているものが多い。志賀直哉の世界をより知ってみたい人には、いろいろと読むことができるそれらをお勧めする。

ただ、いきなり長編の『暗夜行路』に挑戦するのはちょっと待ってほしい。先に書いたように文体の間のびが気になる場合があるので、志賀上級者になってからのほうがより楽しめるからだ、と、中学時代に同作品読破に挫折した本人が書き足しておく。

(文/芥川 奈於

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