川奈まり子の実話系怪談コラム ブランコが揺れる【第二十夜】
無人のはずの公園。見えるはずのない存在がそこにいる・・・。
あれは35歳の頃だから、およそ12年前のことだ。夏、猛暑の折だった。夜更けて、ようやく少し涼しくなり、私と今の夫は有楽町のあたりを散歩していた。
直前まで銀座で飲んでいたので、酔いざましのつもりだった。 公園に差し掛かった途端、私が尿意をもよおした。 ちょうどそこに公衆トイレがあった。
私は彼にトイレの外で待ってもらって、用を済ませることにした。女子トイレの一番手前の個室に入り、ドアを閉めて、なんとなく下を向いた途端、汚物入れに目が留まった。
蓋が外され、四角い財布のようなものが一杯に詰め込まれていた。 よくよく見ると、やはり財布で間違いない。
革製のもの、布製のもの、男もの、女もの、色々合わせて少なくとも10個以上ある。上の方に乗った2つ3つは蓋が開いており、そのようすを見た限りでは、どれも中身は入っていないようだ。犯罪の匂いがすると思い、トイレを出た後、外で待っていた彼にその旨、報告した。
警察に届け出た方がいいだろうか。そう相談したのだが、2人とも酔っているうえ、0時をとうに過ぎているし、善意で知らせた結果、あらぬ疑いを掛けられないとも限らない……と、彼も私も迷った挙句、そのまま行ってしまうことにした。
「明日の朝になれば、きっと清掃員が見つける」
公園の出口に向かって歩き出すと、彼はそう呟いた。
■誰も居ない公園で・・・
私はそのとき、その数年前、鎌倉に住んでいたときのことを思い出した。
《明日になれば、きっと清掃員が見つける》
夜、公園で見つけた「あれ」を見なかったことにしたとき、私もちょうどそんなふうに心の中で自分に言い聞かせたのだった。
それは、公園の植え込みの根もと近くに落ちていた。
近くに立つ電灯の明かりに照らされてはいたものの、その手前でブランコが揺れていなければ、気づかなかったかもしれない。
その頃も夏で、私は仕事の帰りがけに涼しい夜風に誘われ、寄り道して公園に行ったのだ。 夜の9時頃だった。公園は無人で、なのに、ブランコが1台、ゆぅらゆぅらと揺れていた。
私は驚いてそちらを注視し、そして、その後ろに何か落ちていることに気づいた。ブランコは、今の今まで、誰かが漕いでいたのだろう。それ以外には考えられない。
そして、あの後ろにあるものは布のようだ。 赤い花柄のハンカチか何か。 ブランコに乗っていた人が落としたのかもしれない。私は周囲に視線を巡らせ、声をあげた。
「誰かいますか?」
返事は無かった。 私はブランコの方へ近寄った。 まだ僅かに揺れている。 それが勘に障ったというか、少し怖くて、チェーンを手で押さえて、動きを止めようとした。
ブランコのチェーンに手が届く――そのとき、落ちているものが何だか、ようやくわかった。 たしかにハンカチのようだが、赤い花柄と見えたのは、赤いまだらの染みである。血だ。
しかも、まだ新しい。鮮血だ。 いや、わからない。絵の具やペンキ、あるいはトマトケチャップかもしれない。 でも……。
ゾクゾクと寒気が背筋を這い上ってきた。ブランコに向けて伸ばしかけていた手を、私は引っ込めた。
後退りして、背を向け、小走りに公園を出た。出る直前、振り返ると、なんとしたことか、ブランコがまだ、いや、さっきより大きく揺れていた。おかしなものはなんにも見なかったことにしようと決めたのは、そのときだ。
関連記事:【恋愛】デート場所で判別!「仕事ができるイケメン」は○○に誘う?
■それからの奇妙な出来事
財布のときには、その後、何も起こらなかった。 あの後、銀座・有楽町の周辺で悪質な掏り被害があったとのニュースが報じられるのではないかと考え、テレビの報道番組や新聞などをしばらく注意して見ていたのだが、そういうこともなかった。
しかし、ブランコのそばで赤い液体塗れのハンカチを見つけた後には、幾つか奇妙な出来事に見舞われた。
3日ほどして、当時、編集補助のアルバイトをしていた小さな出版社の、50代の女の上司が、前夜、高校生の息子が暴漢に襲われて大怪我をしたと言って会社を休んだ。
翌日、出勤してきた彼女によると、息子は夜九時頃、公園の中を通り抜けようとしたところを3、4人がかりで襲われたのだという。
バットで殴られ、顔面や鎖骨、肋骨、腕を骨折したが、不幸中の幸いで、命に別条はなく、入院も3日で済んだ。しかし、彼の夏休みは台無しになった。
「なんであんな公園を通ろうとしたのかしら。あそこは、前に強姦殺人事件が起きたのよ。昼間ならともかく、よくまあ、夜に行く気になったものだわ」
もしや、と思い、私は訊ねた。
「どこの公園ですか?」
「うちの近く。ということは、あなたの家からも近いんじゃない?」
そう言って、上司はその公園の場所を私に説明した。 ――やはり、あの公園だった。
「私、ついこの前、夜の9時ぐらいにそこに行きました。そうしたら、ブランコが揺れてて……誰も居ないのに。それで、その後ろに何か血みたいな赤い液体がたくさんついたハンカチが落ちてて……」
「厭だ! 何それ! 怖いじゃない!」
「ええ。だから、逃げちゃったんです。血塗れの布も厭ですけど、ブランコも、いつまでも揺れてて、ゾーッとして」
「ブランコはともかく、そのハンカチのようなのは、確かに在ったのよね?」
「ええ」
彼女は考える目をして、少し黙った。それから、おもむろに再び口を開いた。
「不思議ね。犯人たちが立ち去ってから、息子は意識を取り戻して、ハンカチで顔の傷を押さえたそうなの。それから公園を出て、近くの家に行って助けを求めたんだけど、ハンカチは結局、公園で警察が見つけたのよ。息子は意識が朦朧としていたから、いつどこで落としたのかも憶えてなかったんだけどね」
「でも、私が見つけたのは4日も前です」
「だから不思議なの。それとも、4日前にも誰かが襲われたのかしら」
私は、あれを見なかったことにせず、警察に届け出ていたら……と考えずにはいられなかった。
そうすれば、もしかすると、上司の息子は暴漢に襲われなかったかもしれない。悪い奴らは逮捕されていたかもしれず、少なくとも、警察があの公園をパトロールするようになって、そうした輩は近づけなかったのではないか。
それどころか、あの直前にも、誰かがあそこで襲われていたのだとしたら、そうして泣き寝入りしていたのだとしたら、どうか?
私はもしかすると、たいへん罪深いことをしてしまった可能性がある。
関連記事:【川奈まり子の実話系怪談コラム】散在ガ池【第十一夜】
■ひとりでに動くブランコ
何日間か、そんなふうに秘かに後悔した。が、やがて私は忘れた。 元々、薄情な人間なのだろう。
日々は忙しく、他人を気遣う心の余裕も無かった。 なんと言っても、私自身は、誰に襲われたわけでもない。
それからひと月ほど後の日曜日、私は当時の夫(後に離婚した)と二人でピクニックに行った。早朝から弁当をこしらえ、水筒と一緒に籠に詰めて持ち、近所の野山を散策したのだ。
源氏山公園から山づたいに無計画にどんどん歩いていき、わざとのように迷子になった――私たちは、ことに私は、こういう散歩が好きなのだった。 適当な所で弁当を食べてしまうと、荷物が軽くなったぶん、無鉄砲さが増した。
獣道のようなところまで這入り込んで、めくら滅法に突き進むうちに、藪の中に潜ったようになり、いくらなんでもこのまま歩くのは無茶だから引き返そうかと笑い合いつつ話し合っていたところ、ふいに、ひょっと視界が開けた。
まったく思いがけず、見憶えのある景色が目の前に広がっていた。 あの公園だった。 公園の一端が、山裾に接していたのだ。たまたま、そこに出てきたのだ。
反射的に、例のブランコを目で探してしまった。 すると、実に厭な感じがすることに、なぜかまたしても1台だけ揺れていた。
夫もそれに気づき、
「誰かさっきまで居たのかな」
と呟いた。 私は、それは違うような、しかし、是非そうであってほしいような気がして、応えることが出来なかった。
赤く汚れたハンカチのような布は、今回は無かった。 夫がブランコのところへ行って、チェーンを手で掴み、揺れを止めた。
「ここで、こないだ、会社の人の息子さんが襲われたんだって。それに、昔、強姦殺人事件もあったんだって」
「えっ。厭だなぁ。そういえば、お昼間なのに誰も遊んでない」
「ねえ、私たちも、行こう。なんだか気味が悪いよ。ブランコだって、揺れてたし」
「いや、これは……。でも、そうだな」
夫は顔をしかめてチェーンから手を離した。
「行こう。もう、そろそろうちに帰ろうか。汗もかいたし」
公園を後にして、そこからは真っ直ぐに帰宅した。 週明け、昼休みに上司に誘われて、会社の近所のレストランで一緒にランチを食べた。
そういうことは珍しかった。 折入って話があるのだろうと思った。 食事がだいたい済むと、上司はおもむろに切り出した。
「あの犯人グループ、捕まったんですって」
彼女の息子を襲った暴漢たちのことだとピンときた。
「昨日のことよ。それでうちにも警察から連絡がきて、面通しっていうの? 昨夜遅く、警察署に息子が呼ばれて、逮捕された奴らを確認させられたの」
「同じグループだったんですか?」
「それがね……。あの子ってば、暗いところで急に襲われたから、よくわからなかったんだって。犯人たちの顔も服装も何も憶えてないって。ただ、人数だけは4人だったと思うと言っていて、今回、逮捕されたのも4人だから、警察は、こいつらで間違いないだろうと言ってる」
「よかったですね」
「ええ。ところで……あれから、また、あの公園に行った?」
私は昨日の昼、散歩の途中で偶然、公園に行ってしまったことを話した。
「それって何時頃のこと?」
「正確にはわかりませんが、午後1時頃か……2時にはなっていなかったと思います。源氏山公園でお弁当を食べてから、適当に山を歩いてるうちに迷子になって、獣道みたいなところをメチャクチャにぐるぐる歩いて。そうしたら、偶然、公園に出たんですよ」
「へえ」
「でも、すぐに公園から出ちゃいましたけど。ブランコがまた揺れてて、不気味だったので」
「そう。昨日の夜の8時頃だったそうよ、そこで犯人たちが逮捕されたの」
「えっ? またあの公園で?」
「そう。近所のサラリーマンを襲ったんだって。その人、五十くらいのおじさんだったそうだけど、うちの子と違って強かったみたい。抵抗して揉み合っているところへ、パトロール中のパトカーが……」
「なるほど」
彼女はこんな話をするために私を昼食に誘ったんだろうか、と不思議に思いはじめていた。
これまでのところ、私と個人的に話す必要のない内容だ。 少し会話が途切れ、上司はコーヒーを注文した。
「ところで、あのブランコなんだけど、私も揺れてるところを見たの。息子の事件の後で、公園に行ったときに、誰も乗ってないのに揺れてたのよ」
ああ、このことを話したかったのか、と私は腑に落ちた。
「不思議ですよね。あれ。2度とも、揺れてましたから」
「偶然じゃないかもしれない」
「え?」
「強姦殺人事件の被害者は、あのブランコのところに倒れてたんですって。こないだの土曜日、刑事さんたちと一緒に公園に行ったの。満身創痍の息子に付き添って。そのとき、刑事さんが、昔、あそこで被害者が倒れていたんだって話してくれて」
「ええっ?」
「刑事さん、合掌してたわ。私も一緒に手を合わせてしまった。幽霊なんて、普段は信じないんだけど。でも、ブランコが揺れていたから、思わず……」
関連記事:【川奈まり子の実話系怪談コラム】連れて逝く人【第七夜】
■見えてはいけないはずの女
そういうことがあってから、2年ほど経ち、私は夫と離婚することになった。
離婚届を出し、八王子の実家に戻った次第だが、引っ越し前に、鎌倉の地元の女友だち2人がお別れ会を開いてくれると言って、そのうちの片方の家に招かれた。
その子のうちに行くのは初めてだった。 行ってみたら、あの公園のすぐ近くだとわかった。友人宅で会話と食事を楽しみ、夜の8時頃、もう1人と連れだっておいとました。
まだ日中は蒸し暑い時分だったが、日が落ちると夜風が涼しく心地よかった。
「公園の中を突っ切って行こうよ」
と友人が言った。
私はブランコのことや昔の事件のことなどを話そうと思ったが、うまく言い出せなかった。 幽霊を信じるような、おかしな人間だと思われるのが厭だったのだ。
そこで結局、友人にくっついて公園に足を踏み入れたのだが。
――あ、まただ! 無人のブランコが揺れていた。 傍らの友人も、ブランコの方を見た。 そして、声をひそめて、私に話しかけてきた。
「やだ。あの人、怪我してる」
「人?」
私たちしか居ないのに。
「うん。ブランコに座ってる、女の人」
「そんな人、居ないよ?」
彼女はブランコを振り返り、青ざめた。
「嘘っ! さっき居たのに」
そこで私は、過去に強姦殺人事件がそこであったことや、ブランコの件を話した。 私たちは公園の出口を目指して歩を速めた。
あともう少しで出られるというときだった。 背後でガチャリとチェーンが鳴る音がした。 ブランコのチェーンに違いなかった。
友人は、大声で悲鳴をあげ、私の腕を掴んで駆け出した。 私は転びそうになりながら、必死で彼女についていった。 どちらも振り向かなかった。そんな勇気はなかった。
公園からだいぶ離れてから、友人に訊いたところ、彼女はチェーンにぐったりともたれるようにしてブランコに腰をかけている若い女を見たのだと言った。
女の鼻から下は、血塗れだったそうだ。 私が見たのは、揺れるブランコだけだ。
思い返すと、頭の奥で今も手招きするようにゆぅらりゆぅらりと揺れているような気がする。
(文/Sirabee編集部)