万人に読み継がれる名作『博士の愛した数式』【芥川奈於の「いまさら文学」】

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「数式」―数学の苦手な人は取っ付きにくいであろう言葉であるが、中身は全く柔らかく、優しく、時に悲しみに溢れたハートフルな作品。それが、小川洋子・作『博士の愛した数式』(2003)である。

17年前に交通事故に遭い、記憶を司る機能を失った博士。そこに家政婦として「私」がやってくる。

博士の背広には「私の記憶は80分しかもたない」と書かれたメモがつけてある。

博士は「私」に会う度に、「君の靴のサイズはいくつかね」と同じことを尋ねる。私は博士の義姉に言われた通りの簡単な仕事、面倒を見るということだけをして日々を過ごすが、やがて博士の数字好きが高じて、彼の囁く言葉に惹かれていく。

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「私」には10歳の息子がいて、それを知った博士は「子供を独りにしておくものではない」と、毎日連れてくるように言いつける。それから、博士と「私」と息子・ルートの儚くも切ない、そして温かい日々が始まる。

この物語の中には、数式の他にキーワードになるものがもうひとつある。それが、博士とルートの共通の趣味・野球(特に阪神のファン)である。

博士は江夏選手の野球カードを大切そうにしている。ルートも博士に、野球の規定打席はどうやって決めればいいのか求める。

それを「私」は温かく、愛おしい視線で眺めるのだ。疑似家族という言葉は大嫌いであるが、28歳のシングルマザーの「私」には博士が必要なのだと感じる。

そうすることで、この物語が、博士の記憶がなくなってしまうという悲しみや堅苦しい数字のやりとりを和らげ、小さな愛情や面白みを与えていく。

クライマックスとラストシーンは、涙なしには読むことはできぬ程悲しく、優しい仕上がりだ。万人を通じて読み継がれる作品であることは、この小説が「第一回本屋大賞」を受賞したことで証明される。

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この本の作者が書く男性は、どことなく日本人離れしていてお洒落である。

本作の博士も、クローゼットの中には3着のスーツと3本のネクタイ、6枚のワイシャツ、オーバーが1着しかなく、息子のルートに完璧なテーブルマナーを教えたりするところは、当に紳士的だ。

本作は、2006年に寺尾聰主演で映画化された。こちらは、原作とはややストーリーが違う部分もあるが、雰囲気は十分に出ている。

また、著者がこの作品より前に書き上げている『薬指の標本』(1997)は、フランスにて「L’Annulaire」のタイトルで2005年にフランス人女性監督によって映画化されている。

小川洋子の描く世界は、やはりどこかお洒落で切なく、淡い空気の中にいる感覚を味わった気にさせてくれる。

(文/芥川 奈於

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