日本書紀に見る「浮気を許してもらう方法」とは?
日本書紀から恋愛を学ぼう。
有名人の不倫問題が世を騒がせているが、日本人は昔から、妻に「浮気」を許してもらうため、いろいろ工夫してきたらしい。
もちろん現代とは貞操観念大きく違うため、同じように考えることはできない。「一夜限りの恋」ならば、浮気と考えなかったようだし、当時天皇は側室を複数入れるのが当たり前の時代だった。
しかし皇后の性格によっては、なかなか側室を許してもらえず苦労した天皇もいる。それが仁徳天皇と允恭天皇だ。
■妻のいぬ間に浮気をした仁徳天皇
庶民が貧しい暮らしをしているのを見て、「民のかまどから煙があがるようになるまでは、税金をとらない」と、自らも貧しい暮らしに甘んじたことから、「聖帝」とも呼ばれる仁徳天皇。その御陵(墓)は日本一大きく、長さだけで見れば世界一を誇る。
そんな偉大な天皇も、皇后には頭が上がらず、側室を入れたくても許してもらえなかった。そこでどうしたかというと、皇后が旅行中にこっそりと側室を招き入れたのだ。
もちろん、旅行から帰ってきた皇后は大激怒。実家に帰ってしまったが、次期天皇の候補となったのは皇后が生んだ皇子だけだから、正妻としての権力は持ち続けたようだ。
しかし、仁徳天皇が皇后から許してもらったかどうか、日本書紀にははっきり書かれていない。むしろ、針のむしろに座り続けた可能性もある。今も昔も浮気の後始末は大変なようだ。
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■無理やり浮気を認めさせた允恭天皇
允恭天皇は仁徳天皇と皇后の息子だが、御陵はさほど大きくない。「私は体が弱くて天皇が務まるとは思えない」とずっと逃げ回っていたが、皇后の強い勧めでやっと即位したというから、気弱な性格だったのだろう。
しかし、皇后の妹が絶世の美女だと知ると、どうしても側室にしたいと強引に迫る。当然皇后は良い顔をしなかったが、あの手この手で「妹を側室にしたい」と主張し続けた。
そしてある日の宴会で、一計を案じる。この時代、舞いを舞った人は、女性をひとり天皇に世話をしなくてはいけない決まりがあったので、皇后に無理やり踊らせるのだ。
そして皇后が舞い終わると、「なぜ女性を世話しますと言わないのだ」と責め、妹を側室にさせると約束させた。権力と習慣を口実に無理やり浮気を認めさせたわけだ。
しかしその後も、妹のところへ行くたび皇后に叱られていたようだから、やはり浮気は簡単ではない。
古い時代のことだからあまり参考にはならないかもしれないが、浮気がバレたときは、「古代の天皇も浮気で失敗したんだよ」と言い訳にしてみてはいかがだろうか。
(文/しらべぇ編集部・上江洲規子)
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