【真田丸】戦乱の世は「震災期」 地震と日本史の関係を考察
日本は世界有数の地震発生国だ。
地震のメカニズムはまだ完全に解明されていないが、頻発する時期とそうでない時期があるらしいと分かっている。そして地震がたびたび発生する頃は、時代の激動期であることが多い。なぜなら昔の人々は「地震は神仏の怒りだ」と考えていて、その感情が社会不安を誘発させるからだ。
16世紀末の日本、すなわち安土桃山時代は地震が相次いだことは、意外と広く知られていない。
■自然現象が与える影響
ネット上では藤岡弘、演じる本多忠勝が神通力で地震を止めたと話題になったが、どのような形であれ天正地震が時代劇で取り上げられることは少ない。不思議なことに、歴史学者でも大々的に紹介する人物があまりいなかったのだ。
「地震と自然現象の関連性」は、極めて重要な考察点。たとえばモンゴルの英雄チンギス・ハーンは、1222年にハレー彗星を見ている。その時、チンギスと彼の配下のモンゴル兵は何を思ったか?
「これは我々が世界の支配者になるという、神のお告げだ!」
そう考え、意気揚々と剣を振り上げたに違いない。
地震もそれと同じだ。ひとつ違うのは、地震の場合は専らネガティブな感情を人々に与えてしまうということ。
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■もし大地震が発生したら……
天正地震が発生した1586年から、推定マグニチュード7以上の地震が頻発。
1596年に発生した慶長伏見地震の時、豊臣秀吉は伏見城にいた。当時は唐入りが行われていたが、明朝との和睦交渉が進められ伏見城に明朝使節団が来る手筈だったのだ。
秀吉は明朝使節団に日本の国力を思い知らせるため、豪華な接待を計画。現代もそうだが、外国の要人をもてなすには贅を尽くした食事と5つ星ホテルは欠かせない。少しでも手落ちがあると「この国は大したことない」と見なされてしまうからだ。
だが、大地震のせいでそれができなくなった。その上明朝使節団が持ってきた国書は「日本国王は明朝皇帝に服従せよ」という内容であり、秀吉は大いに激怒。
「もう一度明へ出兵じゃ! 新しい城は地盤の固いところへ立て直せ!」
そう命令した秀吉を、諸大名はどのような目で見ていたのだろうか。
繰り返すが、この当時は「自然現象=神のお告げ」。大地震が発生し伏見城が損害を被った時点で、秀吉は「神に見放されている」のだ。
しかも彼は、2度目の外征と城の再建を同時に命じている。諸大名にとってはどちらも損ばかりの行動。そしてこれをきっかけに、豊臣家の求心力は失われていった。
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■幕末も「大震災期」だった
この例だけを見ても、地震が歴史に与える影響がいかに大きいか分かるだろう。
慶長年間は、まさに「大震災期」と表現してもいい区分だ。その中で豊臣家が力を失い、代わりに徳川家が勢力を拡大。つまり徳川家康は、地震の影響を上手く利用して天下取りを果たしたとも言える。
だが皮肉にも、そのような過程で成立した徳川幕府は地震によって衰退した。
ペリーの2度目の来航直後、日本は再び大震災期に突入。世に言う「安政地震」だ。これは江戸や東海地方、四国、九州などで多発した大地震の総称である。
黒船来航は全国の尊王攘夷派が行動を起こすきっかけになったが、それに加え大地震が頻発したら、当時の尊攘派志士は何を思うか?
「これは幕府に対する神仏の怒りに違いない」
そう考えた者は、決して少なくないはず。そうでなくとも「地震で被害が出たのに幕府は何もしない」と感じる人間もいたはずで、それが徳川幕府終焉のターニングポイントになった。
このように、「地震と日本史」は切っても切り離せない関係なのだ。
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