マレーシアの歴史都市マラッカで、戦国日本の面影を偲ぶ

2016/09/01 05:30


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日本の戦国時代は、狭い列島の中でいくつもの勢力が競っていた。だが、もちろんそれだけではない。

この時代区分は、前半期と後半期とで大きく形が異なる。なぜなら、16世紀中葉に西洋人が来航したからだ。そして西洋人との交易が巨万の富をもたらすと気づいた諸勢力は、対外交易に重きを置くようになった。

そこで出てくるのが、マラッカという地名。この街は、戦国日本に多大な影響を与えたのだ。


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■重要拠点としてのマラッカ

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16世紀、ポルトガルの東アジア進出拠点はマラッカだった。今のマレーシアの首都・クアラルンプールからバスで2時間ほどの距離にある都市。

現在のマラッカは、ごく小規模な町である。だが大航海時代当時、マラッカを制することは東アジアを制したも同然だった。現代でもマラッカ海峡は、世界的に重要なシーレーンだ。

東アジア及び東南アジアでヨーロッパ商人が買い込んだものは、必ずマラッカに集積される。また、西洋からの舶来品もここを経由した。大航海時代を語るのに、マラッカは欠かせない。

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あのフランシスコ・ザビエルは、マラッカを東南アジア宣教の拠点にしていた。日本人初のキリスト教徒ヤジロウがザビエルと初めて知り合ったのも、やはりこの町である。


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■和洋折衷の町

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マラッカ歴史地区の中心部はオランダ広場。この町はポルトガルからオランダ、そしてイギリスと宗主国が幾度も変わった。現在のマラッカの町並みは、概ねオランダ時代に整備されたもの。

江戸時代の頃の日本は、オランダと交易していた。ということは、オランダ植民地とも交易していたということになる。東南アジアの陶器や織物、工芸品などがマラッカから日本へ輸出されたのだ。

となると、この港町には必然的に人も集まってくる。日本語に「和洋折衷」という言葉があるが、マラッカにもそのような現象が起こったのだ。中国、マレー、インド、ヨーロッパの人々の間で混血が進み、さらに文化も融合して独特の様式が確立された。


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■日本からも手軽にアクセス

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マラッカは日本からのアクセスも容易である。

今や日本の空港にもLCCが就航し、海外旅行にかかる費用は安くなった。関西国際空港からマレーシアのクアラルンプールまで、エアアジアXに乗れば片道1万円程度で済む。そこからは先述の通り、バスで2時間ほど過ごせばマラッカに着く。

しかも、そもそもが小さい町だから主な見どころはすべて徒歩圏内にある。これほど手軽な海外歴史探訪の旅は、他にないだろう。

とくに戦国ウォッチャーにとっては、海外の史跡を巡るのも重要な作業。徳川家康の天下平定が達成されたのも、やはり「海外の力」があったから。もともと日本が有していた金銀銅の鉱山資源を海外に輸出することで、その何倍もの富を得ることができた。安土桃山文化も、そうした流れで形成されたのだ。

歴史というものは、必ずどこかでリンクしている。中でも戦国日本とマラッカは、非常に関連性が強いのだ。

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取材・文/しらべぇ編集部・澤田真一

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