【真田丸】大砲を活用…徳川と豊臣の「金属生産戦争」とは

2016/09/11 05:30


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※画像はNHK公式サイトのスクリーンショット

関ヶ原の合戦では、西軍すなわち石田方が複数門の大砲を運用した。

大砲、当時は「大筒」と呼称したが、この秘密兵器により東軍の足が止まったのは事実。じつは西軍は、火力の面で東軍を上回っていた。大津城攻撃に参加した立花宗茂の軍勢も、関ヶ原に間に合わなかったとはいえ、やはり大砲を所有していた。

関ヶ原の合戦から大坂の陣までの15年間、日本の軍事は「大砲の活用」というテーマを持つことになったのだ。



■大砲の恐るべき威力

この当時の大砲は、当然ながら現代のそれとはまったく違う。

16世紀から17世紀にかけての大砲といえば、ほとんどが青銅製。その理由はふたつあり、まずは船に積んでも錆びないことと、当時の鋳造技術で大きな鉄製品を作ることは不可能だったからだ。

だからこそ、石田三成が関ヶ原で運用した砲も青銅製だったはず。また、この当時の砲弾は球形だ。ボーリングの玉が空から降ってくるようなもの、と表現すれば分かりやすい。炸裂こそしないものの、人体を引き裂くには充分な威力がある。

たとえば、平野の多いヨーロッパでは地面に対して砲身を水平にした状態で撃つということがしばしばあった。砲兵用語で言う「零距離射撃」だが、球形砲弾の場合は地面をバウンドしながら直進。中世から近世にかけてのヨーロッパの戦術は密集陣形が基本だから、まさにボーリングの要領で敵兵を跳ね倒していくのだ。

関ヶ原の西軍も、そうした射撃を行っていた可能性は充分にある。


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■家康の切り札

関ヶ原の戦いから14年後。

大坂冬の陣で徳川家康は、芝辻理右衛門という鉄砲鍛冶に作らせた大砲を使った。これは砲弾の重さが1貫500匁(約5.625kg)あり、青銅ではなく鍛造鉄でできているのが特徴だ。

先ほど、「当時の鋳造技術で大きな鉄製品を作ることは不可能だった」と書いたが、ハンマーで鉄を叩く鍛造ならばなおさら。人の力で持ち運びができないものは、鍛造製法では生産が非常に難しい。ところが、現に靖國神社遊就館に鋼鉄製の巨砲が存在するのだ。

日本の鉄砲鍛冶の技術がいかに高度だったかの証明である。そしてこのテクノロジーが、のちのち日本を重工業立国にするための基礎となったのだ。


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■工業立国の基礎

こうして見ると、関ヶ原から大坂までの間に徳川と豊臣両陣営は、最先端の金属生産技術を駆使して鎬を削っていたことが分かる。

すなわち「重工業の発展から見た戦国時代」だが、まず注目すべきは技術発展のスピードの早さ。そもそも鉄砲が伝わったのは西暦1543年。鉄砲が大量に運用されたという長篠の合戦は、1575年の出来事だ。この頃にはどこの大名の軍隊でも鉄砲保有は当たり前になっていて、しかもそれらは海外から輸入したものではない。堺や国友で製造された「国内産」である。

戦国時代は、日本人を「進化」させたと言っても過言ではない。

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取材・文/しらべぇ編集部・澤田真一

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