200年前の偉人が握る、北方領土問題解決の鍵とは

2016/10/21 10:00

PeterHermesFurian/iStock/Thinkstock
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ロシアのプーチン大統領が、12月に来日する。それを踏まえ、日本では北方領土返還の話題がまた盛り上がりを見せている。

いわゆる「北方4島」は、我が国固有の領土。なぜロシアが実効支配しているかというと、第二次世界大戦の最末期にソ連軍が侵攻してきたから。当時はスターリンの独裁体制で、旧ソ連は極めて侵略的な国。

ただ、それ以前から北方4島では日露の争いがたびたび起こっていた。これを仮に「北方領土紛争史」と呼ぶならば、その始まりは19世紀初頭にさかのぼることができる。



 

■すべてのきっかけは「文化露寇」

1806年から1807年にかけ、当時の蝦夷地にあった日本人居住区にロシア海軍が攻撃をかける事件があった。これを「文化露寇」と呼ぶ。

この指揮を執っていたのはニコライ・レザノフで、攻撃に至った動機は「日露の通商の約束を江戸幕府が反故にしたから」。

それは嘘ではない。1792年、幕府はロシア使節として来日したアダム・ラクスマンに長崎への入港許可証を与えているが、いつの間にうやむやに。


激怒したレザノフは、今の北海道東部や北方4島に攻撃を仕掛けた。幕府にプレッシャーを与えるためだ。

だが、それは逆効果だった。幕府は態度をますます硬化させ、1811年には報復としてロシア海軍士官ヴァシリー・ゴローニンを拿捕する。これは国後島での出来事だ。

その1年後、今度はロシアが日本の商船を拿捕した。もちろん、報復として。この商船の主は、淡路島出身の商人高田屋嘉兵衛である。


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■「語学の天才」高田屋嘉兵衛

高田屋嘉兵衛がロシア船に拿捕されたのは、グレゴリオ暦1812年9月18日。この日付は非常に重要である。

なぜなら、嘉兵衛拿捕の4日前にモスクワはフランス軍によって占領されているのだ。もちろん嘉兵衛はこのことを知らないが、彼を拿捕したロシア海軍のピョートル・リコルドは焦っていたはず。

そして嘉兵衛とリコルドはカムチャツカで寝食を共にすることになるが、たった3ヶ月程度の間に嘉兵衛はリコルドと対話ができるだけのロシア語を覚えてしまった。

12月のある晩、嘉兵衛は寝ていたリコルドを起こし「ある用件」について切り出す。それは未だ日本で幽閉されているゴローニンの釈放だ。嘉兵衛はリコルドにこう告げる。

「文化露寇はロシア皇帝の命令ではないという証明がほしい。それさえあれば、ゴローニンは必ず解放される。まずは皇帝の名で、事件の釈明をしてほしい」


このように、日本の一商人に過ぎない嘉兵衛は外国軍隊の士官に語ったのだ。彼は外国語を短期間で習得することのできるスーパーラーナー

失われたモスクワは1ヶ月で回復できたとはいえ、フランス軍と大戦争を繰り広げている最中のロシアはこれ以上日本との関係をこじらせたくはなかった。リコルドは嘉兵衛の提案に乗ったのだ。


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■現代に嘉兵衛はいるか

世界史という視点から見ても、捕虜が国家間の紛争問題を解決してしまう例は非常に珍しい。

嘉兵衛の提案は、その後現実のものとなった。ロシアからの釈明文書を受け、江戸幕府は態度を軟化。ゴローニンを釈放したのだ。

もしロシアに拿捕されたのがスーパーラーナーの嘉兵衛でなければ、ゴローニン事件は解決されずに終わっていただろう。となると皇帝は日本に対してさらなる武力行使を行ない、戦争につながった可能性も。

高田屋嘉兵衛は、「外国に自分の立場を主張できる日本人」だった。差し迫った二国間交渉の場では、そのような人材が常に求められる。

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(取材・文/しらべぇ編集部・澤田真一

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