豊臣秀頼は「マザコン」ではなく「堂々たる大将」だった

2016/10/30 09:00

※画像はNHK公式サイトのスクリーンショット
※画像はNHK公式サイトのスクリーンショット

大坂の陣は、豊臣方を完全滅亡させんとする徳川方の「侵略」でもあった。

確かに、それをやらなければ西国大名が豊臣方に結集する恐れもある。史実でも江戸幕府は明治維新に至るまで、常に「西国問題」に悩まされていた。毛利、島津がいつ幕府に反旗を翻すかが長らく問題視され、最終的にはそれらの大名が本当に幕府を倒してしまったのだ。

だがそれと同時に、徳川家康は豊臣秀頼の「カリスマ性」を恐れていたとも言われている。



 

■寺社の再建に力を入れる

豊臣秀頼という人物は、石田三成と同じく後世の「風評被害」に苛まれた人物だ。

三成が「何でも言うことを聞く小者の佞臣」なら、秀頼は「マザコン」。だが、この両者とも実際は文治タイプの優秀な人物だったことが明らかになっている。

秀頼が豊臣家の威信を保つために行ったのは、戦乱で荒廃した京都の寺社仏閣を復興すること。もっとも、これは家康の意向でもある。豊臣家に復興資金を負担させることで、その力を削ぐことが狙いだ。だが秀頼はその一大事業を拒むどころか、積極的な態度を見せている。

これはやはり、寺社の再建こそが豊臣の影響力を示せる行為と分かっていた証拠だろう。


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■遠藤関よりデカい!

また、秀頼は見た目からして「堂々たる大将」だった。

ある資料によると、彼の肉体は身長6尺5寸、体重43貫。メートル法に換算すれば、197cm160kgだ。

プロレスラーのハルク・ホーガンが201センチ140キロ、幕内力士の遠藤が183センチ153キロである。恐るべき巨漢で、家康ですら大変恐れていたという説も。

ちなみに、当時の日本人男性の平均身長は160センチにも達していなかった。家康は158センチほどだったという。真田信之は大変な高身長で、185センチ程度と推測されている。だがいずれにせよ、秀頼を越える巨体大名は他にいない。


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■優秀だったからこそ

つまり秀頼がもっと早く生まれていたら、稀代の戦国大名として成長する可能性は充分にあったのだ。

これがもし、水準以下の能力しかないバカ殿だった場合、家康はあそこまで強硬的に出なかったのではないか。それこそ毛利輝元のように、あっけなく籠絡されてしまうようなヤワな性格の人物だったら、何も武力で討伐する必要はない。

仮にも大坂の陣で豊臣方が兵力を集めることができたのは、指揮官としての秀頼の能力が優れていたからだという見方もできる。

しかも秀頼は、早々に男子を誕生させていた。庶子とはいえ、豊臣秀吉が晩年まで頭を悩ませていた「世継ぎ誕生問題」を若いうちにクリアしたのだ。

これだけ見ても、秀頼は決して「ひ弱なマザコン」ではない。

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(取材・文/しらべぇ編集部・澤田真一

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