武田信玄と上杉謙信、より優秀な大名は?調査結果でもやはり拮抗

2016/11/02 10:00

rudall30/iStock/Thinkstock
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武田信玄と上杉謙信。このふたりは、まさに「永遠のライバル」と表現してもいい間柄だ。

北信濃は、北陸と信州をつなぐ戦略の要所。この地の覇権を巡り、信玄と北信の豪族衆が戦いを繰り広げていた。上杉謙信は、北信豪族の援軍要請を受けて軍を派遣したのだ。

さらに北信には「日本仏教の原点」と言うべき善光寺もある。当地の住人から見れば、聖なる土地を「侵略者」である武田に渡すわけにはいかなかった。そうした宗教的要素も、川中島の合戦には多分にある。



 

■支持率はほぼイーブン

しらべぇ編集部では「武田信玄と上杉謙信、戦争指揮官としてより優れていたのは?」をいう調査を実施。

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その結果はだいぶ拮抗しているが、武田信玄が51.7%の支持を得ている。「信玄は軍略の天才」という印象は、やはり全国的なものであると証明された。

だが、実際にはどうだったのだろうか?


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■侵略者としての信玄

信玄と謙信、より侵略者的な色合いが濃い戦国大名は間違いなく信玄。これは先述したことだが、北信の争いは武田軍がこの地に踏み入ったことが原因である。謙信は、支援を乞われただけに過ぎない。

これはふたりの意識の違いだ。信玄は自分を「戦国大名」と自覚していたのに対し、謙信はあくまでも「室町幕府の守護大名」という意識だった。だから、領土に対する野心は謙信にはあまりない。

そう考えると、ふたりはじつに対照的な特徴を持っている。信玄は善光寺の本尊を甲斐に移すことも行っているが、その理由は「本尊が戦火に巻き込まれるのを防ぐため」である。かなり身勝手な言い分だ。そもそもは信玄が始めた戦争なのだから。

だが、信玄はその「身勝手」を成功させる能力が極めて高かった。侵略が絶対悪ではなかった時代、それはそれで優れた特徴である。


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■黄金が枯渇する

ところが、信玄の「身勝手」はとんでもない形で武田家の基盤にヒビを入れることになる。

それがいわゆる「西上作戦」だ

これが上洛を目的とするものだったのかは議論があるが、もし本当にそうだとしたらこれ以上無謀な侵攻計画は他にないだろう。

じつはこの時点で、武田の経済基盤を支えてきた甲州金山はすでに枯渇しかかっていた。それに西上作戦が追い打ちをかけ、武田領内の財政は完全に傾いてしまったのだ。


信玄死後、後継者となった勝頼は上杉氏の内紛である御館の乱の際、本来なら上杉景虎に味方するはずだった。景虎は北条氏康の実子で、その北条氏は当時の武田とも同盟関係にあったからだ。

ところが、景虎と敵対する景勝側が買収策に打って出た。勝頼に黄金を差し出したのだ。

結局、勝頼は金に飛びつき北条との同盟を破棄してしまう。直後、織田信長が南信濃の木曽一族の切り崩しを始めた。これが武田滅亡に直結。

武田信玄は、確かに戦術指揮官としては超優秀だった。領土内で様々な特産品を作らせたという功績もある。だが、16世紀は日本が自給自足経済から貨幣経済へと移行する最中。そうした視点から信玄を見ると、手放しで褒め称えるほど優れた政治家だったのかという疑問が浮上する。

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(取材・文/しらべぇ編集部・澤田真一

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