豊臣秀吉の「夢の跡」指月伏見城の石垣が400年ぶりに地上へ
豊臣秀吉が築いた、伏見城がある。秀吉の生涯を語る上で、無視することのできない城だ。
だが、今現在ある伏見城と秀吉が一番最初に造らせた伏見城はまったく異なる。初代伏見城は「指月城」とも呼ばれるが、これは完成直後に倒壊してしまった。慶長伏見地震が指月城を襲ったのだ。
そのため、指月城自体が謎に包まれている。
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■石垣の工法が明らかに
だがここ最近、指月城の石垣が再び日の光を浴びるようになった。
京都府伏見区で行われている発掘作業が、順調な成果を挙げている。先日も石垣の一部が出土し、その具体的な工法が明らかになった。
「石垣の作り方」は、戦国建築史を語る上で非常に重要なものだ。たとえば、下の画像をご覧いただきたい。
これは静岡県静岡市の駿府城の石垣だ。「切込み接ぎ」と呼ばれる工法で、整形された石材がピッタリくっついている。見た目にも大変美しい。
一方、静岡県浜松市にある浜松城の石垣は「野面積み」である。自然石をそのまま荒々しく積み上げている。一見崩れそうな見た目だが、排水性に優れ滅多なことでは崩壊しない。
指月城は、どうやら野面積みに近い工法の石垣だという。
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■職人を囲い込む
ところが、石の表面を叩き割って極力凹凸をなくす工夫も指月城石垣には見られるという。
戦国時代は、職人の技術力がモノを言う時代でもあった。織田信長の安土城を例に取っても、巨大な石材をどう動かしたのか未だに分かっていない。トラックもクレーン車もない時代、物資ひとつ運ぶにも高度な技術が必要なのだ。
信長も秀吉も、職人に対して金銀を惜しみなくばら撒いた。しかも秀吉の場合は、指月城に明国の使者を迎え入れるつもりだった。この時は唐入りの最中だったが、「明を征服する」という当初の目標から妥協した秀吉が停戦交渉を進めていたのだ。
ところが、その只中に慶長伏見地震が発生した。
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■地震と戦国
この大地震は、指月城を完全に破壊した。
今までの歴史小説や時代劇は、なぜか天災を取り上げようとはしなかった。「地震が戦国大名に与えた影響」は、いつの間にか郷土史家が扱うべき事象とされていた節がある。「地震の影響は地域限定のものに過ぎない」という見方だ。
だが、本当にそうか?
地震に襲われた秀吉は幸いにも無事だったが、職人の技術の結晶とも言うべき指月城はそのまま破却となった。豊臣家の財力の粋でもあるこの城は、たった1度の地震により「幻の建物」となってしまったのだ。
それから400年あまり。秀吉の夢の跡は、我々現代人に何かを語りかけようとしている。
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(取材・文/しらべぇ編集部・澤田真一)