古くは北海道や中国大陸にも進出 『越後長岡藩』『群亀』を造る関原酒造
日本酒を使ったフルーツリキュールなど、新しい取り組みも。
そもそもは長岡街道の街道筋に常陸国小山の庄屋が居を構え、年貢米を使って酒造りを始めたのが出発点。屋号は「常陸屋」だった。
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■健やかに長生きしてほしいとの願いを込めて
長岡街道は、長岡から妙法寺峠を越えて出雲崎に至る道で、佐渡・相川の金を運ぶ北国街道と、参勤交代の通路・三国街道を結ぶ交通の要衝。比較的積雪が少ないこともあって、多くの人馬が行き交った。
こうした背景もあって造り酒屋は繁盛したらしく、慶応3(1867)年発行の「越後醸酒家一覧」には、常陸屋勝次郎の名があるという。
「常陸屋は代々小山姓を名乗っていたのですが、明治の頃、常陸屋の一人娘が外川家に嫁いだため、酒造りは外川家に引き継がれました。その頃の銘柄は『越之老松』で、現在の主要銘柄『群亀(ぐんき)』も同じ時期に誕生しています」
と語るのは、代表取締役社長の松原正人さん。 ついでに『群亀』のいわれについても説明してくれた。
「鶴は千年、亀は万年ということわざがあるように、亀は長寿の象徴です。その亀が群れをなしているのが『群亀』。この酒を飲んで健やかに長生きしていただきたい、との願いが込められているのです」
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■大正時代には製造石数2500石以上
明治時代には順調に業容を拡大したのだろう。中国新聞社による大正7酒造年度『全国醸造家相撲番付』には、製造石数2,552石で「西の前頭」に登場している。 その後も破竹の勢いは続く。
大正末期には北海道に進出して釧路に敷島酒造を設立、さらに昭和に入ると中国大陸にも進出を果たした。蘇州に関原醸造公司を設立して、清酒の製造販売を始めたが、日本の敗戦に伴い閉鎖となった。
「現在の関原酒造が誕生したのは1935年です。それまでは個人営業の外川酒造店でしたが、関原酒造株式会社へと改組しました。 しかしそれからが大変。
時代は第二次世界大戦に突入して、多くの酒造メーカーが休業を余儀なくされました。国内の食糧事情も逼迫しましたが、関原酒造は一冬も休むことなく酒造りを続けてきました。創業以来のモットー『良酒醸出』は、伝統の寒造りの技で死守されてきたのです」
と、松原社長は激動の時代を振り返った。