ジャニー喜多川さんの世界平和への願い ファン「東京五輪まで生きてほしかった」

数々の人気アイドルグループを世に送り出したジャニー喜多川さん。30年以上ジャニーズファンを続けるコラムニストからの追悼コラム。

ジャニー喜多川

ジャニヲタ歴30年ライター、ナンシー関ヶ原です。ジャニー喜多川さんが亡くなり、多くの人は「事務所の後継者は誰?」といったことに関心が移っていると思います。

しかしここで今一度、ジャニーさん自身のプロフィールを振り返ってみましょう。



 

◼︎父が日系移民のお寺で働くため家族で渡米

ジャニー喜多川さんは、20代で米国から帰国。そこからアイドルプロデュースを始めたことはよく知られています。でもなぜジャニーさんが米国に住んでいたかはあまり語られません。

一説によるとお父さんがお坊さんで米国の寺で働くため、ジャニーさんが小さい頃に一家で移り住んだといわれています。 戦前、戦後、日本では外国への移民政策がとられました。貧しい日本人がハワイや西海岸に渡った記録があります。

米国にいけば豊かになれると政府に言われて移り住んだものの、結局は現地でも厳しい労働に追われ苦労したとか…。今のように格安飛行機もない時代、一度移り住んだら簡単には帰国できないのが現状でした。

そのため、日系人たちは母国には帰れないけれども、せめてお寺をつくって心を安らげたいと訴えたそうです。 そこで、日本各地のお坊さんが米国に派遣されました。ジャニーさんのお父さまもその1人だったといわれています。米国のお寺でジャニーさんは育ったとか。


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◼︎大戦中の日系人の苦しみ

ジャニーさんは、第二次世界大戦が始まった頃、10代。自分のことを多くは語らないジャニーさんですが、日系人として米国で戦争を体験したことはとても大変だったと思われます。日系人の成人男性は米軍に召集され、日本を母国としながら米国人として戦いました。

ジャニーさんは、そんな辛い境遇の仲間を送り出したかもしれません。 街を歩けば敵国の人間だと、現地の人に差別を受けたかもしれません。そして戦争が激化してくると、ジャニーさん一家は日本に疎開したといわれています。

母国に帰ったら今度は空襲で焼かれる街も見たことでしょう。米国でも日本でも戦争で辛い目にあった…ジャニーさんにはそんな経験があったといわれます。

じつは2019年8月、米国で行われる日系人のフェスティバルで、ジャニーさんはお気に入りジャニーズJr.グループ『美 少年』にパフォーマンスをさせる予定でした。

もしかしたら、生前に自分のアイデンティティ「日系人」であることを現地でJr.たちに伝えたいと思っていたのかもしれません。

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◼︎実体験を元に反戦をテーマにした舞台を
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