【真田丸】家康の「長寿」を巡る諸大名の野望と影響

2016/10/16 10:00


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※画像はNHK公式サイトのスクリーンショット

徳川家康という人物は、当時としてはかなりの長命だった。長生きすることは、戦国の世においても「いいこと」。当時は抗生物質などないから、病気にかかったらそれを治す手段があまりない。

したがって、抵抗力の低い子供などは「病気になったら死ぬ」のが前提だった。

それを乗り越え成人したとしても、病気の危険は変わらない。さらに、戦国時代だから戦死の可能性も。家康自身も、戦場で命を落としかけた経験がいくつもある。

だからこそ、齢70まで生きたということはまさに「超人的」なのだ。



■淀殿は家康の「自然死」を待っていた

だがそれは逆に言えば、家康以外の諸大名にとっては「災難」

関ヶ原以降、諸大名は「家康がいつ死ぬか?」を計算していた。関ヶ原の頃の家康は、数えで58歳。

もしこの時点で死ねば、現代だったら「若くして亡くなった」だが、当時としては「割と長く生きた」ほう。考えてみれば、家康の父と祖父は20代で命を落としている。

豊臣家がそんな家康の自然死を待ち望んでいたのは、当然のことだ。

大坂の陣が発生するきっかけは、自分の寿命を意識した家康の策略によるもの。死ぬ前にどうしても豊臣家を潰さなければならない。

だからこそ、方広寺の鐘の「国家安康」に「豊臣が反逆の意思あり」とこじつけたのだ。


ここで、もし家康が「直前に自然死していたら」を想定してみよう。家康の後継者は徳川秀忠だが、彼の妻は浅井三姉妹の三女・江。だからこそ秀忠と江の娘である千姫は、豊臣秀頼に嫁いだ。

もしここに家康という「絶対権力者」がいなければ、秀忠は豊臣家との講和に動いていた可能性がある。

少なくとも、淀殿はそれを望んでいたはず。だがこのあたりはあくまでも「可能性」であって、もし本当に家康が死んでいたとしても秀忠が講和路線に舵を切るかは分からない。

現に、淀殿と秀頼の母子に対して強硬的な姿勢に出たのは、家康ではなく秀忠の意志とも言われている。史実よりも早い父の死が、そのような姿勢に影響を及ぼしたかは不明瞭だ。


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■政宗の野望

だが、家康が死ぬことを願っていた勢力は他にもある。

伊達政宗がその代表だ。彼は1613年に支倉使節団をヨーロッパに派遣しているが、それはカトリック勢力との裏交渉のため。

確かにこの使節団は家康のお墨付きをもらっていたが、バチカン図書館に残されている伊達政宗の書状から彼の野望が読み取れる。

それは「奥州王にして次期日本皇帝」の伊達家とスペイン国王が同盟を締結できるよう、ローマ教皇に仲介をお願いするという内容。

家康の立場から見れば、明らかな越権行為である。もっとも、この書状が徳川に知られることはなく、伊達家はその後のお家取り潰しの嵐からも免れることができた。

いずれにせよ、これは政宗が家康の死を見越して作らせた書状。言い換えれば、彼自身も「家康の長寿」の犠牲者なのだ。


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■ギリギリの勝利

こうして見ると、家康自身もだいぶ焦っていたに違いないと窺い知ることができる。

家康の死は、豊臣滅亡の翌年に訪れた。つまり時間制限ギリギリでの「勝利」だったのだ。もちろん、彼自身それを自覚していただろう。

今日放映の『真田丸』は、「焦った家康がどのような行動に出るか」という見どころも。この頃の家康には心の余裕はなく、「一刻も早く豊臣を潰さねば」という強迫観念に半ば苛まれている。

そんな中で真田幸村は、どのような行動に出るのか…。大河ドラマから、ますます目が離せない。

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取材・文/しらべぇ編集部・澤田真一

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