現代のニートはいかに生きるべきか?「恐るべき子供たち」【芥川奈於の「いまさら文学」】
アヘン中毒者としても有名なフランスの詩人ジャン・コクトー(1889~1963)が、入院中のわずか数週の間に書き上げたという『恐るべき子供たち』(1929)。
現実感ある浮遊を、危うく脆く、そして恐ろしくも強い子供たちに描かせているともいえるこの本の魅力とは?
画像をもっと見る
■あらすじ
病気がちな母と暮らすポールとエリザベートの姉弟には、夢の世界で恍惚と生きていくという嗜好があった。
そんなポールが慕う少年・ダルジュロスが、石の入った雪玉を不意にポールに当ててしまう。かわいそうなポールはそれがきっかけで病気となり、ダルジュロスは放校処分となる。その後母が亡くなってしまうが、知り合いの叔父らの支援により姉弟は不自由なく二人きりで暮らすことに。
日々を夢想世界で生きる二人の行為に、アガートという少女と孤児のジェラールも加わり、関係が複雑化していく。
そしてあるとき、子供たちの世界は崩壊してしまう…。
関連記事:難解な安部公房『箱男』を何回でも読みたくなる読み方【芥川奈於の「いまさら文学」】
■よりパンキッシュなアヘン夢想曲
この作品は、最愛の人物であったレイモン・ラディゲ(1903~1923)を失ったことでアヘン中毒となったコクトーが、入院し療養中に書きあげたものである。コクトーは、永遠に「大人」になることはない「子供」(=ラディゲ)が破滅に導かれてゆく運命的な過程のなかに美しさを感じ、それを表現したのが今作であるという解釈もできる。
そして、アヘンの影響もあってか、内容はかなりパンク色の利いたものだ。自由奔放なポールとエリザベートの「遊び」は内容も表現もその域を超えているし、後に出てくるエリザベートの婚約者・ミカエルの残酷かつ鮮明な命の落とし方はとても強烈である。
そういったパンキッシュな小説とも思える本作は、しかし不思議と透明で繊細で、死の臭いがいつも立ち込めている。
関連記事:壮絶ないじめに「勝利」した先には…『黒い兄弟』というバイブル【芥川奈於の「いまさら文学」】
■恐るべき子供はニートに成長してしまうのか?
©iStock.com/imtmphoto
ポールとエリザベートは不幸な家庭に生まれるが、周囲の大人からの支援を受けて夢想的な世界の中で生き続け、金銭面での不自由は一切なく暮らしていく。そしてこの姉弟は、「子供たち」とはいえ、立派に恋愛をしたり働くことさえできる年齢でもあるのだ。
あなたの周りにも似たような人はいないだろうか? 立派な意見を持ち己の行動力は誰よりも優れているが、社会的に自立できていない人物が。
そう、この姉弟は、現代で言うところのニートなのである。途中、少しだけエリザベートは洋裁店で働きだすが、それはさておき、汗水たらして働かなくても自然に金銭が入ってくるのだから、生活上、自己の完結だけを追求していればいいのだ。なかなか羨ましい。
しかし、現代のニートと確実に違う点がある。
それは「美しさ」だ。この姉弟には残酷な程の美しさがある。著者が作品内に書いているような「美の特権は偉大である。美はそれを認識しない人びとにも働きかける。」という言葉が、彼らとこの世界にはある。
このままでもいいのだと糠喜びをしている現代のニートに、この「美しさ」は皆無といえよう。
関連記事:少年と人妻の不倫…名作『肉体の悪魔』の作者を愛した男たち【芥川奈於の「いまさら文学」】
■では、現代社会の「恐るべき大人たち」はどうやって生きていけばいいのか?
そうはいっても社畜にはなりたくない。でも、ニートという名の無職のままではマズイ。
そんな彷徨える「恐るべき大人たち」にだって、もちろん生きる権利はあるのだ。何も空想に花を咲かせるのが悪いと言っているのではないし、自立しながらポールやエリザベートのように美しい世界で生きることだって不可能ではない。
それにはまず、なにが「美しい」か、を見極める必要がある。ありがちな自己完結の身勝手な「美しさ」ではなく、視野を広め世界中から知識を吸収する位の意気込みで、他人から、或いは動植物、自然、魂、等々、この世とあの世に存在する全てのモノから「美しさとは何ぞや?」と学ぶ必要がある。
現代で「美しく」生きていくには、それが近道と言える。
※そんな「恐るべき子供たち」を読みたくなったら…
本作は、日本語訳者によって解釈の深さや人名、感想の違いが幅広く出てくるので、その点に注意しながら読み進めていきたい。個人的には画家・東郷青児が訳しているものをお勧めしたい。先に書いたパンキッシュな部分が「色」として強く描かれているからである。
(文/芥川 奈於)