スンニ派とシーア派、東南アジアのイスラム教徒の違いとは

2016/03/05 06:30


©iStock.com/RobertHoetink
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ニュースは日々起きる現象を伝えてくれるが、それを理解するのに必要な知識は教えてくれない。

たとえば、イスラム教のスンニ派とシーア派の対立。この話題は毎日テレビのニュース番組で放送されているが、実際のところスンニ派とシーア派の違いを知っている日本人は多くないかもしれない。

そこで今回の記事では、「誰も教えてくれないニュースの予備知識」ということでイスラム教の宗派の違いを簡潔に説明したい。



■イスラムの代表者

イスラム教の創始者であり、同宗教内で「最高の預言者」とされているのはムハンマドという商人だ。彼の生きた時代は6世紀末から7世紀初頭、じつに意外だが聖徳太子とまったく同じ頃の人物である。

唯一絶対の神を崇めるイスラム教は、ムハンマドの死後からしばらくは彼の親族が代表者の役職を務めていた。

だがこの当時から「イスラム教は唯一絶対の神の下、人間皆平等のはずだ。なのになぜムハンマドの親族ばかりが代表者になるんだ」という議論があった。

現代日本でも、引退した大物代議士の選挙基盤を娘婿が引き継いで政界進出するということがあるが、似たようなものだろうか。

事態は661年に大きく動き出す。ムハンマドから数えて4代目、アリという代表者が抵抗勢力に暗殺されたのだ。

その後はアリの息子であるハッサンが代表者を引き継いだが、彼は途中でその職を放棄。すると今度はハッサンの弟のフセインが代表者になった。

だが彼の代にはすでに勢力図が代わり、ムハンマド一族内での役職継承を良しとしないウマイヤ朝が台頭していた。

結局、フセインはウマイヤ朝との戦争に負け家族もろとも虐殺される。これを歴史上では「カルバラーの悲劇」と呼ぶ。


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■シーア派の発端

ところが、イスラム教徒の中で「じつはフセインはペルシャに落ち延びた」と主張する一派が現れた。

悲劇の英雄には、必ず「生存説」が付加される。日本でも「源義経は大陸に脱出してチンギス・ハーンになった」、「豊臣秀頼は秘密の抜け道を通って九州に逃げた」などの異説がある。それと一緒だ。

この「フセイン生存派」はウマイヤ朝とは異なる独自の代表者を擁立するのだが、つまりこれがシーア派。

端的に言えば、「あの時フセインは死んだ」という立場にあるのがスンニ派、「いやいやフセインは生きてるよ」と主張するのがシーア派である。


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■東南アジアのイスラムは寛容?

ところが、イスラム教が世界中に伝えられていく中で、そうしたことにこだわりを見せない人々も現れた。東南アジアのイスラム教徒である。

マレーシア、インドネシアの人々は、そもそも宗教法学者でない限りカルバラーの悲劇など知らない。さらに言うと、この辺りの地域はかつてヒンズー教や仏教に基づいた王国が君臨していた。

その影響は今でも色濃く存在し、たとえばインドネシアのジャワ島中部地方ではヒンズー聖典『ラーマヤナ』のミュージカルが頻繁に行われている。それを演じる役者がイスラム教徒であっても、何の問題もない。

これが中東なら、イスラム教徒が異教の聖典を視覚化して教え伝えるということなど絶対にあり得ない。国によっては死刑判決が出てしまう。マレーシアとインドネシアは、その「絶対にあり得ないこと」を実現しているのだ。

報道ではしばしば一様に語られてしまうイスラム教だが、じつはこうした多様性があることも確かである。

(取材・文/しらべぇ編集部・澤田真一

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