【素晴らしき昭和の文壇】渡辺淳一のお別れ会を取材 愛溢れた北方謙三の弔辞

2014/08/01 15:00


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『阿寒に果つ』『失楽園』『愛の流刑地』などの作品で知られる作家・渡辺淳一氏が、今年2014年4月30日に前立腺がんにより東京都内の自宅で亡くなった。80歳だった。そして、7月28日に帝国ホテルにて「お別れ会」が開催された。

これに、我々「しらべえ」取材班も参加した。立ち上がったばかりのサイトで、この偉大なる作家のお別れ会を取材させてもらうのはやや緊張したのだが、「博報堂DYグループのNEWSYが運営する“しらべえ”です。取材させてください」と依頼のメールを送ったところ、OKの返事がきたのだった。大手企業の名前を出せば信頼してもらえるだろう、というセコい処世術だ。サラリーマン時代に学んだものである。サラリーマンをやっていて、よかった。

このお別れ会だが、出版界、芸能界を中心に、会場となった孔雀の間には800人を超える参加者が集まっていた。安倍晋三首相や中曽根康弘元首相などからの弔電も届いていた。

弔辞を読んだ作家・北方謙三氏は、

「自分と渡辺さんとバーテンダーしかいないバーカウンターで、互いの考えをぶつけあったこともある。しかし、女性がいない酒場は不毛だと意見が一致して銀座のクラブに移った。そこで、私のジーパンの穴に指を入れて、『こんなもの履いていてはだめだ』と言って引っ張って、穴が2倍くらいになった。先生が考えている値段の2倍以上はするものだった。

『男なら着物を着ろ』と着物をくれた。亡くなった後、遺言になかったが勝手に渡辺さんの家に着物をもらいにいった。遺族から贈られた渡辺さんの着物を今日は着てきた。袖を通すと悲しいほどにぴったり。“返せ”と言われたい」

など、ある一定の年齢以上の男性にはお馴染みのフレーズ「ソープへ行け」ならぬ「和服をくれ」な愛あふれるエピソードを数々披露。他にも渡辺淳一氏に言われた「小説は頭で書くな」という言葉が頭に残っていると語っていた。

同じく弔辞を読んだ林真理子氏は、飲みの席で「あなたの葬儀委員長をやってあげよう」と言われたエピソードを披露。「私よりも長く生きるつもりだった先生は、生命力に溢れる人だった」と振り返る。渡辺淳一氏のスタイルは「俗欲の肯定」であり、影響を受けたという。「最近の直木賞選考会 いつもならいるはずの先生がいなくて寂しかった」ともコメントした。

献花も、『失楽園』に出演した黒木瞳、川島なお美をはじめ、津川雅彦、三田佳子、名取裕子、阿川佐和子、豊川悦司、秋吉久美子、なかにし礼など、錚々たる顔ぶれだった。出版社、新聞社の経営トップ層も勢揃いしていた。そこにはナベツネこと、読売新聞主筆の渡邉恒雄氏もいた。「巨星、旅立つ」「一つの時代が終わった」という言葉が、実によく似合う、盛大な会だった。遺影の笑顔にも、渡辺淳一という作家の大きさを感じた次第だ。

実は渡辺淳一氏は、筆者にとって札幌南高等学校の先輩だ。渡辺氏は第2期、私は第43期だった。渡辺先生との思い出といえば、「図書館だより」の思い出が忘れられない。1992年、私が高校2年生の頃、図書館の企画で、図書館委員の生徒たちが偉大なる先輩である渡辺淳一氏にインタビューをした。

そこで、生徒は作品の中で出てくる図書館での密会シーンについて質問したところ、渡辺氏は「ああ、私は当時、図書館でよくそんなことをしていたよ」と実に気持ちよく語っていたのだった。高校生には刺激が強かったはずだが、そんなインタビューが載った会報誌が全校生徒に配布されたのだった。『失楽園』が日経に載るのはその3年後だった。

冒頭の渡辺淳一氏を説明する一文に『阿寒に果つ』を入れたのも、私のプチこだわりだ。北海道民にとって、そして札幌南高等学校のOBとして、渡辺淳一氏といえば『失楽園』でも『愛の流刑地』でもなく、『阿寒に果つ』が最初にくるのだ。

まったく別な切り口で、物書きとして考えたのは、私たちが80歳になる頃、ここまで盛大に送られる同世代の作家はいるのかということだった。先のことは分からない。いま、40歳の私にとっては40年先だ。それまでに大御所作家が出るかもしれないし、なんせ時間もあるのでファンも増えることだろう。ただ、豪快でいかにも昭和の作家らしい大御所が同世代から出るのか。考えてしまった。文壇、論壇で食べることができるのか。そんなことが日々不安になる。いや、そこで不安になっていたら、物書きの仕事などできないのだが。

時代のせいだけにしてはよくない。もう一度、出版界に、言論界に、夢と希望を持たなくてはと思った次第だ。ありがとう、渡辺淳一先生!

(文/常見陽平

常見陽平コラム
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