【川奈まり子の実話系怪談コラム】散在ガ池【第十一夜】
鎌倉市の散在ガ池は明治2年に造成された人工池だが、出来た直後から子供の溺死事故が相次ぎ、近隣住民の手によって、およ146年前、子供たちを遠ざけるためのまがい物の伝説が作られた。
この『神次(しんじ)の話』を彷彿させる怪異に遭ったことがある。まずは『神次の話』をご紹介したい。それは、ざっと、こんな物語だ――。
【神次の話】
昔、今泉村になかなか子宝に恵まれない長者の夫婦がおりましたが、朝に晩に神仏に祈願したところ、元気な男の子を授かりました。
夫婦は、この独り息子を神次と名付け、とても大事に育てました。
神次は元気な子で、外を走りまわれる年頃になると、近所の化け物鰻が棲んでいるという池にもしばしば遊びに行くようになりました。
けれどもある晩、長者殿は夢の中で「息子の神次を池にやってはいけない」という声を聞き、これは神仏のお告げであろうと思って、神次を部屋に閉じ込めることにしたのでした。
よかれと思ってのことでしたが、その日から、なぜか神次は生気を失い、次第に痩せ細って寝つくようになってしまいました。
打つ手もなく、途方に暮れていた長者夫婦は、ある日、とうとう命も危ういと思えるほどに弱った息子から「死ぬ前にもう一度だけ池を見せてくれ」と懇願され、哀れなようすに否とは言えず、池に行くことを許しました。
すると神次は跳ね起きて、家から飛び出していきました。
そして一目散に池まで駆けていったかと思うと、その勢いのまま池に身を投じてしまいました。神次は、それきり浮かんできませんでした。
救いがない。結果だけがあって、原因が提示されていない。だから怖い。
こういう不条理な昔話は珍しくない。上手にそれらしく作ったものだと思うが、残念ながら、子供らを遠ざける効果はあまり無かった。
『神次の話』が出来て以降も、あいかわらず散在ガ池では子供らがよく死んだ。
しかしながら、昭和40年代から50年代中頃にかけて、散在ガ池は整備・再整備を繰り返した後、57年、散在ガ池森林公園として開園した。
昭和のその当時、鎌倉一帯は住宅地として開発が進み、新規の住人を呼び込みたい不動産業者の思惑から、散在ガ池を「鎌倉湖」と呼び替えて宣伝する向きもあったそうだ。
実際、湖と呼んでもさしつかえないほど、散在ガ池は広く、景観も良い。周囲を緑に囲まれており、水鳥が集い、鯉も棲んでいる。
池の周りを巡る遊歩道があり、近隣住民の憩いの場あるいはデートスポットにぴったり……のはずが、いつもたいがい空いていて、ことに平日は、あたりからまったく人影が絶えてしまうのは、明治の昔から今に至るまで事故・事件が多いせいだろうか。
約20年前、私が鎌倉に住んでいた頃には、池の近くで、女性のバラバラ死体が発見された。
「バラバラ死体ですか?」と私はその老人に訊き返した――そのとき私はフリーライターとして、鎌倉市内であるお年寄りのご自宅にお邪魔していた。
明治・大正・昭和初期頃の、いわゆる「古き佳き鎌倉」の証言集を地元の出版社から出す予定で、他数名のライターと手分けして、鎌倉の生え抜きの古老を取材してまわっていた最中だった。
すでにこの日のインタビューはほぼ終わり、お茶をいただきながら雑談をしていたら、最近この近所で起きた事件の話になった。
「そうだよ。怖いよね。このすぐ近くの池で見つかって、死体遺棄事件だということで、うちへも警察が話を聞きに来たんだよ。まだ犯人が捕まっていないんだと。あなたも気をつけなさいよ。どこへでも、独りで取材に行くんだろう?」
「ええ。でも、私はこうして皆さんのお話を聴かせていただくことが多くて、池や何かには参りませんから、ご心配なく」
「そうかい? まあ、もっとも、あそこから遺体があがるのは、これが初めてじゃないんだ」
「そうなんですか?」
「うん。僕が小さな頃には、抱き合った格好のまま骨になった母子の死体が引き揚げられたことがあったな。それが誰かに殺されたのか、親子心中したものなのか、結局わからなくてね。しかも、その母子の死体は、どちらも首が無かったんだと……」
「うわぁ。それは怖いですね!」
「だろう? また、それとは別に、隣の学校の子が溺れ死んだって噂も聞いたっけ。親からは、池の主は化け物鯰で、子供を水の中に引き摺り込んで食べちゃうんだぞって脅されてた。遊びに行かせたくなかったんだろうな」
「きっとそうですね。危ないから」
「うん。危ないと言えば、当分の間は、あなたもあそこには行かない方がいいよ。化け物鯰はでたらめだろうが、バラバラ事件の犯人は、まだそこらへんにいるかもしれないわけだからね」
ところが、私は散在ガ池に行ってしまったのだ。しかも、注意されたその日のうちに。
その頃、私は、散在ガ池を昭和に出来た通称の「鎌倉湖」として認識しており、「池」だと思っていなかった。そのせいで、間抜けなことに、このご老人が話していた池を市内の別の池だと思い込んだまま話を伺っていたのである。
インタビューが終わっても、まだ陽が高かったので、私は近辺を散策してみることにした。
午後の2時か3時頃で、季節は春。そのあたりは風致地区に指定されていて、緑が豊かで、そこで八重桜や山吹が咲いていた。景色を楽しみつつ歩いていると、やがて『鎌倉湖畔通り』という道標を見つけた。
鎌倉湖のことは話に聞いて知っていたが、訪れたことはなかった。
――行ってみよう。
思いついて、私は足を速めた。
ところが、そこに到着してみると、森へ続く小路があり、その入口に『散在ガ池森林公園』と書かれているではないか。
――池?
なんとなく厭な予感がした。
さっきのお年寄りは、池と言っていた。
でも、こっちに行けば鎌倉湖に着くはず。
どんよりした疑問を抱えたまま、森の中を歩いた。
そのうち下り階段に差し掛かり、途中で視界が広く開けて、池と呼ぶには広すぎる水面が目に飛び込んできた。
――なんだ。やっぱり湖じゃないか。
そう思ってホッとした、ちょうどそのとき、後ろから人が駆けてくる気配が近づいてきた。
階段の幅が狭かった。のろのろしていては邪魔になってしまうと思い、とっさに足を速めて、一気に階段を下り切った。
……ところが、降りたところで振り向くと、誰もいない。
――気のせいだった?
頭の端で池にバラバラ死体を捨てた犯人のことが明滅した。
――ここが件の池なのかしら。散在ガ池森林公園と書かれていたし。
とりあえず、水のほとりのベンチ腰かけてはみたものの、気分は落ち着かない。
しかも、座った途端、水面に浮かんでいた鴨が一斉に飛び立ってしまい、それと同時に、どこからか子供の笑い声が聞こえた。
――子供が石でも投げたのだろうか。それで、鴨たちが逃げたのか。
あたりを見回したら、4、50メートルばかり離れた岸辺に小さな人影を見つけた。
――ああ、やっぱり子供のしわざだ。
私は乱視の入った近視で、メガネを掛けていても、10メートルも離れたら顔や服装など細かいところは見えない。
が、体の小ささなどから推して、8歳から10歳ぐらいの子供だろうと思った。
短めのおかっぱ頭で、男の子のようでも女の子のようでもある。独りきりで、池を囲う柵の中に入っている。
危ないではないか、と思ったそのとき、子供らしき人影は、スススーッと水の方へ滑っていった。
紐で引き寄せられるような動きだった。私は、思わず声をあげて走り寄った。「危ない!」
間に合わなかった。子供はどんどん水の中に没していってしまった。
ところがそれが、ジャブジャブと歩いて入るのとは違う、ひどく滑らかな入り方で、水音もしない。しかも速い。黒い髪が半球の形に水面に浮かび、それが頭のてっぺんだけになったかと思うと、あっと言う間に見えなくなった。
あとは、深緑色の水が澱んでいるばかり。私は震えながら柵にしがみつき、子供が消えたあたりの水面を凝視した。
気泡ひとつ浮かんで来ず、何事もなかったかのように鎮まり返っていた。
――何もかも、錯覚だったのだ。
そう私は考えようと努めたが、到底その場に長居することには耐えられす、さっき来たばかりの道を戻ったのだが、そのとき、先刻は見落としていた看板を見つけた。そこには公園の由来などが書かれていた。
そして、これはやはり池であって、鎌倉湖は通称に過ぎないことも、子供の水難事故が多いことも、知ってしまった。
ということは、つまり、近所には他に池が無いことから、最近若い女性のバラバラ死体が捨てられていた池というのも、ここに違いないと悟らざるを得ない。
……死体遺棄の犯人は捕まっていないのである。
私は、無我夢中でその場を逃げ出した。
曰く、池のほとりに子供の幽霊が現れる(たくさんの子供の霊が出るという説もあり)。
曰く、池の中に中年男性の霊が出る。
曰く、携帯電話を2台持っている場合、1台を近くに停めた車中に置き、もう1台を持って池の周りを歩いていると、車に置いてきた携帯電話から、持っている携帯に電話がかかってくる。
曰く、池を巡る遊歩道を歩いていると、脚に女の髪の毛がからみつく。
曰く、池の周りを一周すると不幸が訪れる。
今回、この稿を書くにあたり、鎌倉市の散在ガ池に関する、主にインターネットで喧伝されている怖い噂の類を蒐集してみた。
『神次の話』を創作するまでもなかったのかどうかはともかく、近頃では、「心霊スポット」「怪奇スポット」として、散在ガ池は、そこそこ有名なのだ。
私の体験談も、そのうちの1つに加わるのだろうか。
あの後、私はあそこで見たことを記憶の奥底に押し込もうと努め、実際、それっきり20年も忘れていた。
ところが去年、こんなニュースをたまたま見て、記憶を蘇らせた次第だ。
~2014年9月18日18時10分 Facebook「鎌倉ガーディアンズ」のページへの投稿~
「市民のみなさま 最近の防犯情報です 9月3日・・・散在ガ池森林公園で白骨化した遺体が発見」
20代半ばから30代の女性の遺体だったようだ。
そうしてみると、ネットで囁かれている「遊歩道を歩いていると、脚に女の髪の毛がからみつく」などという怪談は、心霊現象でも何でもなく、「本当に死体遺棄された被害者の髪の毛だったんじゃ……?」という気もしてくる。
怪異な出来事はときたま本当に起きると思うが、現実の事件も怖い。
この死体遺棄の犯人が逮捕されたかどうか、ネットで調べた程度では不明だった。20何年か前のバラバラ死体遺棄犯も、未だに捕まっていない。
(文/川奈まり子)