【ヤンキー不在】村祭りとしての紅白鑑賞のすすめとは?
今年も紅白歌合戦の出場者が発表された。
出場を決めたアーティスト、落選したアーティストについて裏事情なども含め色々と書いている記事を見かけるが、私としては「紅白はNHK村のでっかい村祭り」という目線で見るべきだと思っている。
まずそもそも村祭りなのだから、歌手選考にあたって、マラソンの五輪選考のような公正さや客観性や透明さを求めること自体、間違っている。
仮に何かの拍子で財力を持ってしまった村祭りがあったとして「誰か歌手呼ぼうぜ」となったら、それを決めるのは村の青年団あたりであろう。
その選定において村民の民意など問われることはなく、青年団の声のでかい人の趣味で決まったりするものである。紅白の歌手選定はそういう感覚で見るべきなのだ。
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■じつはわかりやすい? 紅白出演者の見分けかた
当然、村祭りなのだから、地元に貢献してくれた人は厚遇するのが筋である。
朝ドラで貢献してくれた人は特別コーナーへ、大河ドラマで貢献してくれた人は審査員へ、バラエティで貢献してくれた人は司会へと配置されるのはしょうがない。
今年は「あさイチ」コンビの有働アナと井ノ原快彦が司会に配置されたが、別にここが立川志の輔・小野文惠アナの「ためしてガッテン」コンビでも構わないわけである。
そして歌手選考も地元に貢献してくれた人が有利なのは当たり前で、番組主題歌、番組司会など村にゆかりのある人は当然優先席が用意される。
もちろん世間に大きく注目される村祭りだけに、選考基準は地元優先だけでは許されない。
各町内会からは「おらのところからも出せ」「いやおめのとこは5組も出てるでねえか」「何を! そっちこそ似たようなグループ山のように出しやがって。おらの方からもっと出させろ」などという声が届く。
その中には、ご意見番を名乗る人間からの強いプレッシャーもあったりする。
村の青年団と各町内会との付き合いは祭りの時だけではない。それ以外の364日も仲良くしなくてはならないので、出演者のバランスをとるのは一苦労である。
もちろん、すべての町内会が満足する選考など出来るわけはなく、結果的にはみんなに少しずつ我慢してもらうしかない。
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■ヤンキーのいなくなった紅白
選曲についても、せっかくの祭りで知らない曲を歌われても困るので、余程の大物に頼み込んで出てもらっている場合以外は、村サイドが選曲する。
ここのところ石川さゆりが「津軽海峡・冬景色」と「天城越え」を1年おきに歌っていたり、ゴールデンボンバーが毎回毎回「女々しくて」を歌っているが、それでいい。
ファンからすればもっといい曲があるのに、と思う気持ちはわかる。しかしこれは祭りなのだから、基準はひとつ。みんなが知ってる一番盛り上がる歌を歌うべきなのだ。
そして、祭りといえばヤンキーである。ヤンキーは普段の勉強などは一生懸命やらないのに、なぜか祭りには全力投球する生き物である。
そう考えると、かえすがえすも氣志團のいない紅白は寂しい。DJ OZMA全裸スーツ事件から10年。そろそろ許してあげてもよいのではないだろうか。おそらくその時歌うのはまた「One Night Carnival」なのだろうが。
もちろん、札幌でYOSAKOIソーラン祭りを遠巻きに冷ややかに見ている人がいるように、紅白についてもあんな村祭り出たくないという人はいる。
しかし、田舎の村祭り周辺の人たちというのは、出たくないと公言する人ほど「出ようよー」としつこく誘うおせっかいさがある。
結果、根負けして、いやいやながら出演する人がいるのだが、その座りの悪い感じもまた見所である。
紅白の演出は時にださく、垢抜けない。一方で、民放の歌番組ではありえないほどの人数のバックダンサーがいたり、豪華絢爛なセットも見られる。それらもすべて「紅白はでっかい村祭り」という前提で鑑賞すれば納得感がある。
「最近の紅白はつまらなくなった」という人は、今年は是非、村祭り目線で楽しんでいただきたい。そうすれば、きっと穏やかな気持ちで新年を迎えられるだろう。
(文/前川ヤスタカ)