【川奈まり子の実話系怪談コラム】正月異聞“オミダマさま”【第三十二夜】
宮城県気仙沼市には「オミダマさま」もしくは「オミタマさま」と呼ばれる正月の慣わしがある。
亡くなった方の家、または菩提寺に、年明けに親族が集まり、仏さまを拝むのだという。
家により、一月二日、あるいは三日や四日と行う日が異なったり、お供えする物や供える場所などが少し違っていたりするようだ。
前年に亡くなったばかりの仏さまを「オミダマさま」で拝むことは「初ミタマ」と呼ばれ、来客は黒い熨斗袋に「御霊前」乃至は「御仏前」と記した香典を持参することになっている。
一年を過ぎると、黄色い熨斗袋、もしくは赤い熨斗袋に「おみだま様」(人により「おみたまさま」や「オミダマさま」のこともある)と書くという決まりだ。
「オミダマさま」には正式な漢字表記が無い。気仙沼で親から子へと口伝えで受け継がれてきた風習だからだ。
しかし、漢字で書くとしたら、「御御霊様」か、あるいは「御御魂様」ということになるであろうと推測できる。
というのも、「オミダマさま」は、民俗学上は、日本全国各地にある御魂祭(みたままつり)のパターンのひとつだと認識されているので。
御魂祭と同じように、「オミダマさま」でも農作物を供物とする。行う時期も、歳末と年明けという違いはあるが、近い。祖霊を祀る点も同じだ。
さらに、御魂祭のお供え物を「オミタマさま」と呼ぶ地方もあるというから、これはもう間違いないと言えそうだ。
小野寺さんは気仙沼出身の女性で、東京で働きながら子育てをしている。
年齢は36歳だというけれど、小柄で童顔の美人であり、20代後半に見える。
「去年のお正月のことです」
と彼女は静かに語り始めた。
「一昨年、気仙沼にいる叔父と叔母と従兄が数ヶ月のうちに亡くなったんです。
叔父と叔母は夫婦ではなく、私の父の弟と妹です。
従兄は父の姉の長男です。
父は4人きょうだいだったんです。それが、短い期間で姉と自分の二人きりになってしまったというわけです。
おまけに可愛がっていた甥っ子まで死んで……。
うちは私の他には年の離れた姉が2人いるだけで、男が生まれませんでしたし、みんな嫁いで気仙沼から出ていってしまいましたからね。
死んだ従兄は地元に残って、私の実家にもときどき顔を出していました。子供の頃からです。家が近所だから。
私と同い年で、まだ独身でした。うちの両親にとっては息子がわりみたいな感じだったかもしれませんね。お葬式のときも、父は泣いて泣いて……。
そのせいで、ちょっとおかしくなって……。
ええ。父が。
いえ、べつに気が変になったというわけではないんですけど、今回はしっかりオミダマさまをしないわけにはいかないと言いはじめたんです。
父は長男ですから一族を代表する立場ですが、本来、あまり伝統や何かにはこだわらない、現代的な人間でした。
オミダマさまは気仙沼に伝わる習慣で、今でも、旧家や、大きな農家や網元さんのうちではちゃんとするみたいです。
だけど、うちは違います。
父は県内の企業に勤めてました。定年退職後は、そこの子会社にあたる缶詰工場を任されてます。サラリーマンなんです。
母は他県の出身で、オミダマさまなんて聞いたことがなかったそうです。
両親とも70代ですけど、今の70代は気持ちが若いじゃないですか?
古い因習みたいなものは好まないんですよ、田舎にずっと住んでいたって。
そういうわけで、うちではオミダマさまは年々おざなりになっていました。
私が高校生のときに祖父母がパタパタッと亡くなって、そしたら、もう全然やらなくなってしまいました。
……「そのせいだ」と父は思いこんでしまったんですね。
つまり、オミダマさまをしていなかったから、自分の弟妹と甥っ子が亡くなったんだ、と。
そう固く信じ込んでしまったんです。
そんなわけないんですよ。
叔父は震災前から闘病生活を送っていて、いつ死んでもおかしくありませんでした。
叔母は元気でしたけど、茨城に出掛けたとき、たまたま交通事故に遭ったんです。
従兄は、真夜中に自宅の門のところにある階段で足を滑らせて、打ちどころが悪かったみたいで、朝、同居している伯母が見つけたときには、もう亡くなってました。
1年のうちに3人も身内が死んで、私だってショックですよ。
だけど、そんなの偶然です。
最後に亡くなったのは従兄でした。
でも父は、祖先の霊が祟ったんだと言い始めて、それに母や伯母たちも同調して……」
小野寺さんは、お子さんが小学校に上がってからは、帰省は夏だけにして、正月に実家に帰ることはやめていた。
冬休みは、家族水入らずで国内外を旅行したり、映画館や遊園地へ行ったりする習慣だったという。
「だから最初は、正直、えーイヤだな、面倒だなって思いました。
でも、今、小学校6年生になるうちの息子がオミダマさまに興味を持って、面白そうだから行きたいって。
うちの子は、オミダマさまを見たことがなかったんです。
妖怪ウォッチが流行りはじめた頃だったので、なんか、妖怪みたいなものだと思ったんじゃないかしら。違うんですけど。
そんなに面白いものじゃないよって私は言ったんですが、聞かなくて。
夫は、子供に伝統文化を見せるいい機会だと言いました。
それに、そのときは息子はサッカーしかやってませんでしたが、春休みから塾に通いはじめる予定だったんです。
ええ。中学受験のためです。
勉強が忙しくなるから、次の夏休みには気仙沼には連れていかないつもりでした。
だから今回を逃すと、お祖父ちゃんお祖母ちゃんに会えるのはずっと先になってしまうと息子に言われて……私も、なるほどなぁって……」
小野寺さんの旦那さまも気仙沼出身だったが、3、4歳の頃に家族で東京に移ってきていた上に、彼の親族も皆、東京や神奈川に引っ越しており、気仙沼には誰も残っていないのだそうだ。
旦那さまは、オミダマさまは話で聞いたことがあるだけだった。
「他所に移り住んだ人は、みんなオミダマさまをやらなくなるみたいですよ。
夫は、いちど見てみたいと言ってました。
地元だって、正しい方法できちんとやっている家は少ないんじゃないでしょうか。
去年の正月に実家でやるときには、両親がお寺のご住職にも色々教わって……。
父も、うろ覚えになっていたんでしょう。
それに、すごくちゃんとやりたいと思ったようでした」
小野寺さんたちが気仙沼の実家に着いたのは、12月27日の夜で、翌朝から、さっそくオミダマさまの準備が始まった。
まずは供え物にする餅を搗いた。
行事そのものも「オミダマさま」だが、その供物も「オミダマさま」と呼ぶのだという。
一族の菩提寺の住職や神社の宮司に聞いたり、古い記憶を引っ張り出しだりして用意された供物は、このようなものだった。
丸い餅12個と握り飯12個、干し柿と蜜柑をひと山ずつ。
そして、叔父と叔母と従兄の位牌と香立てと線香。 それらを真新しいザルに白紙を敷いた上に乗せ、箸を三膳添えて、仏壇の前に供えるのだった。
「オミダマさまだけじゃなくて、神棚の飾りつけも、私の記憶にある中では最高に凝っていて、細かいところまでちゃんと伝統に乗っ取ったものにしました。
28日から大晦日まで、準備が本当に大変でした。
親戚が大勢来るから、お節料理もいっぱい用意しなければいけなくて。
姉たちと私は、朝から晩まで台所に居るような感じでした。
お寿司を取ればいいって私は言ったんです。
でも、母が、昔ながらのお正月をやると決めていたから、仕方がありませんでした」
大晦日の晩も、年越し蕎麦などの用意で小野寺さんは台所に立っていた。
そのとき、ちょっとした異変に気づいた。
「オミダマさまのお供え物が、台所の調理台や流しに転がってるんですよ。
子供たちの悪戯かと思いましたが、みんなやってないと言うんです。
最初は、オニギリが、ポンと調理台に置かれていて、次に、お箸が流しのシンクの中に転がって濡れてしまっているのに上の姉が気づいて、子供たちを叱って……。
でも誰もそんなことしてないって言うから、少し気味が悪くなりました。
そのうち、お蕎麦を茹でている最中に、私が蜜柑を踏んで転びそうになったんです。
お供え物の蜜柑だと思います。他には出していませんでしたから。
踏んだ蜜柑を戻すわけにはいかないので、新しいのを仏壇の前に持っていったら、お餅や何かの並べ方がぐしゃぐしゃになっていて、そのときそばに母がいたので、すぐ言いました。
「お母さん、見て。こんなことになってるよって」
小野寺さんのお母さんは、乱れたオミダマさまのようすを見て青ざめた。
彼女が知る限り誰も触っておらず、最後に見たときには供えたときのまま、きちんとしていたからだという。
また、仏壇のある部屋の中には絶えず誰かが居たはずだと彼女は小野寺さんに言った。
だからこんなことになるはずがない、と。
「不気味でしょう。
なんか触るのもイヤだったんですけど、そのままにしておくわけにもいかないから、母と2人で黙ってオミダマさまを直しましたよ。
ところが、その後、みんなでお蕎麦を食べていると、また……」
オミダマさまの方から、ゴトンと何かが落ちる音が。
「なんだろうって、うちの息子が、見にいったんです。
母がそのあとを追いかけて、なんとなく私も続いて。
みんなで食事をしていたのは、仏壇の次の間でしたから、すぐですよ。
息子はもうオミダマさまのところにいて、手にお餅を持って振り向いてました。
落ちてたよって。
そう言った途端、オミダマさまのザルの縁から蜜柑がころころ転がり落ちて、私は思わず悲鳴をあげてしまいました。
それで、みんなが見に来て……」
とりあえず、小野寺さんのお父さんの指示で供え物を整え、皆で仏壇に向かって手を合わせた。
それから食事に戻り、しばらくは何事もなかった。
「元旦も大忙しでした。
私の家族だけじゃなく、上の姉の家族と、下の姉も家に泊まっていました。
下の姉の旦那さんと子供たちは近所の旅館に泊まっていましたが、朝のうちにやってきて、みんなで御膳を囲みました。
この朝は、伯父と伯母も来ました。亡くなった従兄の両親です。
伯母たちは喪中です。
だから、明けましておめでとうとは言ってはいけないと、私たちは事前に母から注意されていました。
でも、伯母たちが黒い服を着てきたのにはびっくりしました」
チャイムが鳴って小野寺さんが玄関を開けると、目の前に、ぞろりと黒い着物を着て並んでいたのだという。
伯父さんは黒い紋付袴、伯母さんは黒留袖。
「喪服ですよ。
お正月なのに。
そんな習慣は、気仙沼にだってありませんよ。聞いたことがない。
もう、本当に気味が悪くて、鳥肌が立っちゃいました。
伯母さんたちのことは、それはもう気の毒だと思うけど、でもね……。
それから、みんなでお屠蘇を回して、お雑煮やお節料理を食べました。
誰も、伯母さんたちのことは言いませんでした。
腫れものに触るみたいにして、みんな、あの人たちには、あんまり話しかけなかったと思います。
父は、伯母さんたち夫婦と少し会話していましたが、招いたのは父なので、そうせざるをえなかったんだと思います」
食事の前に、伯母夫妻はオミダマさまに手を合わせていた。
「二十八日に餅搗きをしたとき、従兄の位牌を借りて、オミダマさまに上げていたんですよ。
叔父と叔母のも、そうです。
奇妙な感じがしますよね?
総領の家でやるものなんでしょうか。
父がオミダマさまをやりたがったから、みんな流されて、そんなことになったんですけど、伯母たちがうちに来ると、やっぱり何か変だなと気づかざるをえませんでした。
でも、御住職も止めなかったんですよね。
だから間違ってはいないのかもしれませんけど、でも、ねえ……。
それに、また起きたんです。
大晦日のときみたいなことが、食事の後に」
伯母さんたちは、なかなか帰ろうとしなかった。
夫婦で仏壇の前に座って、いつまでも位牌を眺めている。
小野寺さんたちは遠巻きに眺めているほかなかった。
やがて、伯父が小用に立ち、伯母さんが独り残された。
お茶を淹れたので、小野寺さんが声を掛けると、伯母さんはようやく立ちあがってこちらを向いたが、そのとき。
「ガサッと音がして、ザルが動いたんです。
伯母は後ろを向いてましたが、私はしっかり見ちゃいましたよ。
触ってもいないのに、オミダマさまのザルが揺れて、上のお供えものがずれました。
位牌も1つ倒れて……。
それが、従兄のだったから、伯母さんが泣きだして……。
位牌を抱いて泣いていて、そこへ伯父さんが戻ってきて、うちの両親や姉たちも集まってきて、もう、なんだか大騒ぎでした。
そうしないと収まりがつかないから、みんなでオミダマさまに手を合わせました。
あんな変なお正月って、ないですよ。
でも、あのときは全員、気が動転していましたから、誰もおかしいとは思わなかったんですよね。
うちの両親は、伯母たちに位牌を持ち帰ってもらうことにしました。
3日に御住職を呼んでオミダマさまにお経をあげてもらうことになっていたので、そのとき持ってきてもらえばいいと父が言ったんです。
伯母は位牌を抱いて帰って行きました」
それから3日までは何も起こらなかった。
いよいよオミダマさまの日になり、再び伯母夫婦が家を訪れた。
持ってきてもらった位牌をオミダマさまのザルの上に戻し、お供え物を整え直して、ご住職を迎えた。
読経の後、ご住職も一緒に昼食を食べた。
お経をあげる前に、叔父や叔母にゆかりのある人や従兄の友人たちも訪ねてきて、そのうち何人かは食事に参加した。
30人以上だったと思う、と小野寺さんは苦笑した。
「一時は50人近くいたと思います。
それほど広い家じゃないのに。すし詰めですよ。
あまりの混みように、気をつかって、食事の途中で早めに帰る人が何人かいました。
台所も、てんやわんやで……。
私は、自分の食事はサッと済ませて、台所に引っ込んでました。
伯母たちを見ていたくないというのも、ありました。
だって、また喪服を着てきたんですよ?
伯母さん、しょっちゅう泣いてるし……。
台所で洗いものをしているほうが気がラクでした。姉たちと世間話をしながら。
そのうち、子供たちも食事を終わって、家の中をうろうろしはじめたようでした。
私は、息子に言って、外で遊ばせようとしました」
小野寺さんは台所を出て、他の子らと一緒に廊下を歩いていた息子を呼びとめ、外へ行くように言った。
近所の公園へ、子供たちは出掛けていった。
「前に来たときに連れていったことがある公園なんですけど、子供たちを見送ってから、ハッと思い出したんです。 去年の夏に来たとき、うちの子は、従兄にその公園に連れていってもらったってこと。
すっかり忘れてました。
お盆で帰ったその日、たまたま従兄が来ていて、息子を公園に連れていってくれたんです。
従兄が死んだのは、それからひと月ぐらい後のことです。
そんなことを思い出したせいでしょうか。
台所に戻る途中、廊下にポツンと蜜柑が落ちているのを見つけたとき、咄嗟に、またオミダマさまの蜜柑が転がり出てきたんだと思ってしまいました。
従兄の霊が悪さをしてるんじゃないかって、なんかそんな気がして……。
蜜柑を拾って、こっそり捨ててしまいました。
そしてまた新しい蜜柑をオミダマさまのところへ持っていったんですが……」
また、従兄の位牌が倒れていたのだという。
「私、位牌に触らずに、父を呼びにいきました。『お父さん、ちょっと来て』って。
父は、黙って位牌を直しました。
でも、それからも、位牌が倒れたり、お供え物が転がったり、その日は伯母さんたちが帰るまで何度も何度もおかしなことがありました。
いちばん怖かったのは、午後、みんなでご住職のお寺にお墓参りに行って、帰ってきたときのことです。
父が玄関を開け、私たちはすぐ後ろにいました。
父は、なんとなく習慣で、家に入りながら『ただいま』と言いました。
そうしたら、声が応えたんですよ。
従兄の声でした」
「おかえりなさい」
それ以来、小野寺さんの実家ではオミダマさまをやめてしまったということだ。
(文/川奈まり子)