川奈まり子の実話系怪談コラム 蛭夫【第三十三夜】
「人の家に寄生するヤツを、蛭って呼ぶの」―本文より。 一人暮らしの女性の部屋に忽然と姿を現す恐怖の存在とは?
蛭はやっかいな生き物だ。子供の頃は田んぼや沼地でよく見かけた。吸いつかれたら、火のついた線香や煙草で蛭の背中をちょっと焼くといいと教わった。無理に引き剥がそうとすると皮膚ごと剥がれて大怪我をする。
その一方で、吸血する蛭には様々な薬効があるという。
血管の再生を促し、血流をスムーズにする他、滋養強壮効果まで期待できることから、古くから医療に用いられてきたそうだから、一概に害虫だとは言えない。
31歳になったばかりの頃のことだ。
当時私はAV女優になる前でフリーライターだったが、そうでなくともあまり売れていなかったところへ、離婚と転居にともなうゴタゴタがあって仕事が激減し、出戻った実家でやや腐り気味だった。
腫れものにさわるようにしてくる家族とやけに静かな正月を過ごし、炬燵で不貞寝をする日々。たまに来る仕事は雑誌の草埋め記事で、何もかもがパッとしない。
そんな折、ひょんなことから取材を通じて私立探偵と知り合い、アルバイトを持ちかけられた。
私は即座にその話に飛びついた。
探偵という職業への子供じみた憧れがあったし(松田優作の『探偵物語』の、そして明智小五郎の、あの探偵ですよ!)、家で鬱々としていることにもいい加減飽きてきていたので。
「ねえ、あなたは蛭って知ってる?」
探偵は、物柔らかな話し方をする人だった。
傷害罪で前科1犯がついているとは思われないぐらいの。
彼は美中年だったが、私の恋人というわけではなかった。
前科があるせいで彼が遠慮したのでも、ましてや私が嫌ったのでもない。
彼には、まだ少年と言っていいぐらいのとても若い男性の助手がいた。
だから何というほど2人の関係を知りはしなかったが、この探偵と私の間には絶対に縮められない一定の距離があるということを出逢ったときから本能的に悟っていた。
そろそろ2月というそのとき、彼の事務所の机の上にはチョコレートを山盛りにしたガラスの鉢が置かれていた。
「蛭ですか。ええ、知ってますよ。田んぼとかに棲んでる血を吸うブヨブヨした気持ちわるいのでしょう?」
「そうじゃなくて、人の蛭」
「人の蛭? なんですか、それ?」
「人の家に寄生するヤツを、蛭って呼ぶの」
「へえ。居候みたいなもんですか?」
「ううん。留守中に家に上がり込んで飲み食いしたり、勝手に風呂を借りたり。箪笥預金や通帳と印鑑を盗ることもあるから、蛭は洒落にならないの」
「人の生き血を吸うわけですね。でも、すぐにバレそうですけど?」
「上手な蛭は、人に痛みを与えない。それに、血を吸いつくすようなこともしない」
「つまり、大金をいきなり盗んだりしないってことですか?」
「そう。たとえば、通帳と印鑑を盗んでお金を引き出せたとしても、1度には数千円しかおろさなかったりしてね。お金だけじゃなく、牛乳パックを空っぽにするようなヘマはしないし、部屋を荒らさないってこと」
「なるほど、そうやって長く寄生するんですね?」
「ええ。それが蛭。それで、今回のアルバイトなんだけど、蛭に吸いつかれているかもしれない人からの依頼がTK社から回ってきてね……」
TK社というのは創業60年を誇る業界最大手の興信所で、探偵は何年か前にそこから円満な独立を果たし、以来、時々小さな仕事を下請けしていた。
「あなたに依頼人さんの振りをしてもらえないかと思ったんだけど、どう?」
「仕事と心中してもいいかと思って」と言って彼女は自嘲気味に笑った。
依頼主は品の良いコンサバ系ファッションに身を包んだ、見るからに賢そうな40代の女性だった。
差し出された名刺にある勤め先は一流大卒でなければかすめることすら難しそうな所で、そこで新卒から今日まで働いているとのことで、肩書きも立派なものだった。
夫も子供も居らず、独りで暮らしているという。
「……思い切って一括でマンションを買ってしまいました。その途端、コレですよ!」
「コレというのは、つまり?」
「誰かに家を乗っ取られそうになっているということです!」
家と言っても戸建ではなく、マンションである。
都内の住宅地にあるビルで、正面入り口の受付には管理人が常駐しているものの、ゴミ捨て場がある裏口には監視カメラもなく、鍵さえあれば誰でも出入り可能な、セキュリティが比較的甘い建物だ。
間取りは3LDK。依頼主はおよそ1年前にここを新築で購入した。
徒歩圏内に彼女の勤務先があった。
自分が留守にしている平日の日中に水道や台所のガス台、洗濯機、エアコンなどが勝手に使われているらしいと気がついたのは、一ヶ月ほど前のことだという。
その後、サラダ油や調味料、野菜などの食材の減りが早いことから、食べ物も盗まれて(そして調理されて)いるらしいと思うようになった。
「たぶん、洋服や下着にも触られたことがあると思うんです。何度か、引き出しに入っているものの畳み方が、私が入れるときと少し違っているような気がしましたから」
そこで、まずは住んでいるマンションの管理人に相談したが、管理人は「注意して見ておきます」としか答えてくれなかったという話を、彼女はひどく憤慨したようすで話した。
「だから私は、管理人さんに、裏口に監視カメラを付けてくれと言ったんです。そうしたら、次の理事会に掛けてみます、ですって。それで、玄関の鍵を替えてみたらどうか、なんて言うんですよ」
「替えたんですか?」
「いいえ。まだ……。やっぱり、すぐに替えた方がいいですよね? でも、それで変なことが止んだら、犯人が誰かわからなくなるって思ったら、それもなんだか怖いじゃないですか」
幸い、パソコンや預金通帳などには何者かにいじられた痕跡が見られなかったので、彼女は、それらや貴金属類などの貴重な品々を信用のおける場所に保管するようにしたのだという。
「だから今は、家には盗まれて困るものは何も無いんです。だけど私の家なのに、勝手に使うようなことは絶対許せないし、何か、もう、生理的に気持ちわるくて……」
「それはそうですよね」
「それに、いつか襲ってきたらと思うと恐ろしくて、近ごろは同僚の家に泊めてもらったりホテルに泊まったりして、週に2日か3日ぐらいしか帰宅してません」
――だから「誰かに家を乗っ取られそうになっている」と彼女は言ったのか。
自分の家なのに自分は帰れず、何者かが好き勝手に家電や何かを使って半ばそこで暮らしている。
これは確かに乗っ取られかけていると言えそうな状況だ。
「あのぅ、警察にはまだ相談に行かれていないんですか?」
「相談してません。こないだ、こちらの方に説明しましたけど」
探偵は、「うん。そうなんだ」と私に言った。
「前に、おかしな男につきまとわれて警察に相談されたときに、とてもイヤな思いをなさったそうだ」
「それは、ちゃんと取り合ってもらえなかったとか?」
「そうなんです! 人を馬鹿にして! あなたの気のせいじゃないですかって言われたんですよ!」
彼女の話をそこまで聞いて、私は、蛭など存在しないかもしれないなとふと思った。
以前つきまとっていた男も同様で、すべてこの人の妄想だということも考えられる。 マンションの管理人の悠長な対応にも、そうならざるをえない理由があるのかもしれない。
たとえば、彼女は一種のクレーマーで、頻繁に管理人に妄想混じりの苦情を述べて困らせているとか。
今どき、その手の迷惑なクレーマーは珍しくない。ストレス社会なのだ。
しかし、だとしたら、私が引き受けたアルバイトはかえってラクになるわけだった。
私は合いカギを預かり、彼女の振りをしてマンションに2、3日の間、滞在することになっていた。
すべて妄想なら、その間、不審者の影もないということになるわけだから、安全なことこのうえない。
ホテルに泊まりに行くようなものだ。
しかも探偵ごっこのおまけつきで。
良いアルバイトを引き受けた、と、そのとき私はホクホクさえした。
私は、依頼主の通常の帰宅時刻であるという午後十時に、独りで彼女のマンションに行った。
同じ日の昼間のうちに、業者を部屋に入れるために仕方なく帰宅したという設定で、依頼主が配管クリーニング業者に扮装した探偵とその助手を伴っていったん帰宅していた。
そのとき探偵は室内をくまなく調べ、監視カメラや盗聴器を仕掛けた。
ひょっとすると探偵と依頼主が蛭と鉢合わせする可能性があったが、そんなことはなく、また、蛭が仕掛けた監視カメラや盗聴器の類も発見できなかったという。
従って、最低限の安全は確保されていた。
さらに、私は部屋に到着する寸前に探偵に連絡して、室内が無人なことも確認した。
「とりあえず今は安全だから、安心して」と電話の向こうで探偵は言った。
彼はマンションの近くに車を停め、車内で室内に仕掛けた監視カメラのモニターを見ながら話していた。
「何かあったら、すぐ電話かメールをください。証拠の写真を撮ることも忘れずに」
私は預かっていた合い鍵でドアを開けて部屋に入った。
蛭は、存在するとしたら、どこかからこのマンションを見張っているかもしれなかった。
そのため、私は依頼主の服や鞄を事前に借りていた。
私たちは身長や体のサイズが近く、彼女と同じ服装で髪型を似せると、遠目には見分けがつきづらいだろうと思われた。
それが、探偵が私にこの役目をやらせようと思ったゆえんだった。
しかし、念のためマスクを付け、顔を伏せ気味にして行った。
ドアを開けた。室内は真っ暗だ。
人の気配は無いか? 怪しい物音は?
鼓膜に神経を集中させつつ、電気を点けた。
綺麗な部屋だった。
整理整頓が行き届いており、モデルルームのようだ。
各部屋をくまなく見て回ったが、おかしな点は皆無だった。
私は、いよいよ、何もかもが彼女の妄想なのではないかという疑惑を深めた。
――と、そのとき、電話が鳴った。
電話に出てもいいのだろうか?
探偵に訊いておけばよかった。
彼もうっかりしている。こちらは素人なのだから、細かなところまで指示を出しておいてくれなければ困る。
私は受話器を取るか否か迷いつつ、とりあえず電話機の液晶画面を写真に撮った。
日時と電話番号非通知の表示。
蛭だろうか?
そのうち電話は止んでしまい、部屋は恐ろしいほど静まりかえった。
ベルの音がうるさかった反動でそう感じるだけだとわかっているが、不気味なほど静寂が深く、自分の呼吸の音が自分のものではないような気がしてきて鳥肌が立つ。
恐怖をやりすごすために私は急いでテレビを点け、探偵に電話を掛けた。
ところが話し中になっている。
いったん切り、再度掛けると今度は繋がった。
「よかった! 今、掛けたところ。すぐに部屋を出て!」
「えっ? さっき電話が掛かってきて……」
「知ってる。僕が掛けたんだ。携帯に出ないから。電波が悪いんだろうと思って、そこの電話に掛けたの。とにかく急いで出て! わけは後で話すから!」
明かりもテレビも点けっぱなしで取るものも取りあえず部屋を飛び出すと、ちょうど探偵がこの階のエレベーターから出て、こちらへ走ってこようとしていたところだった。
私たちはエレベーターに飛び乗った。探偵が1階のボタンを押した。
「危なかった。寝室のクローゼットから男が出てきた」
「えっ! でも誰もいないって……」
「うん。だけど、出てきた。天井板を外して、天袋に隠れていたのかもしれない。昼に行ったとき、クローゼットの中をもっとよく確認しておくべきだった」
「やだ! じゃあ私、本当に危なかったじゃないですか!」
「ごめんね。実は今回、依頼人さんが注察妄想や追跡妄想に囚われている可能性も少なからずあると思ってた。そのせいで油断した。警察にはもう通報したよ。下に僕の車があるから、中でパトカーを待とう」
探偵の車からはビルの正面口も裏口も目視することが出来た。
それらの出入り口から誰かが出てくるということもなかったので、当然、駆けつけた警察官が蛭を逮捕してくれるだろうと私は期待した。
ところがそうはならなかった。
依頼主の部屋には、誰も居なかったのだ。
また、クローゼットには天袋のようなものは存在せず、そこの天井板も容易に外せるような造りでないこともわかった。
クローゼットに掛かっている服の後ろに隠れていたのでは、と私が言うと、探偵は首を横に振った。
中には喪服が一着吊るされていた他は、小さな引き出し箪笥があるばかりだったという。
探偵は警察官に監視カメラの映像を見せたが、皆して首をひねるばかりだった。
私もその場で見せてもらった。
30代から40代と見える小肥りな男性がクローゼットの観音開きの扉を開けて現れ、寝室の真ん中に数秒間佇み、その後、寝室のドアの方へゆっくり歩いていく姿がはっきりと映っていた。
さらに、この男は、私が逃げた直後のリビングルームにも現れた。
リビングルームの隣は玄関だ。男は廊下側のドアから入ってきて、玄関の方に向かい、部屋を斜めに横切っていった。
しかし、玄関の監視カメラは男の姿を捉えていなかった。
リビングルームを出た途端、煙のように消えてしまったとしか思えない。
依頼主は映像を見ると、咄嗟に男性の名前を口走った。
そして急に、今回の依頼を中止したいと言いだした。
探偵は即座に承知したが、私は男が誰なのか訊かなくては済まされない気持ちだった。
蛭の正体は何者なのか。
ニアミスして怖い思いをしたのだから、私には知る権利があると思った。
初め、彼女は教えたがらなかった。
「そんなこと、あなたがたに関係ないでしょう」
「でも、今、名前をおっしゃいました。ご存知の方なんですよね?」
私が引き下がらないと見てとると、彼女は溜息を吐き、「どうせ、こちらとはこれきりでしょうから」と呟いた。
「もちろん知ってますよ。私の夫ですから」
私たちは驚いた。
彼女は独身だったはず――。
「1年半前に亡くなっていますが、見間違いようがございません」
思いも寄らなかった。
けれども、聞いてしまえば何もかもが腑に落ちた。
魔法のように現れて忽然と消えた男。幽霊ならば、納得できる。
依頼主は哀しい微笑を浮かべ、言葉を続けた。
「夫が亡くなってから、あのマンションを購入することにしたんです。
こうなってみると、引っ越すまでの半年の間に私につきまとっていたのも彼だったのかもしれないと今は思います。
とっても彼らしいわ。
ろくに働きもせず、家に引き籠って食っちゃ寝するばかりの駄目な人でしたけど、そういうところは死んでも治らないものなんですね」
依頼主は、仏壇を買うつもりだと最後に話して、去っていった。
例のクローゼットには、亡夫の位牌をしまっていたのだという。
引き出しから毎日位牌を取りだして、話しかけていたそうだ。
仏壇を買うと言ったとき、なぜか彼女は嬉しそうに微笑んだ。
にわかに元気を取り戻し、少しばかり若返ったようにさえ見えた。
幽霊でも、冷蔵庫のものを漁ったりエアコンを点けたりするものなのかどうか。
依頼主と別れてしばらくするとそんな疑問が湧いてきて、探偵に訊ねた。
探偵は言った。
「そのあたりのことは、全部あの人の妄想なのでしょう。
彼女は教養のある常識人だから、まさか旦那さんの幽霊が出てきてるとは思わないよね。
でも、潜在意識では旦那さんに化けて出てきてほしいと願っていたんじゃないかな。 だから本当は気のせいなんだけど、電気代が妙に高いようだとか、食べ物の減りが早いとか、色々気になってきたんじゃないの?
そういう気のせいというか錯覚を、無意識に起こしてたんだと思う。
……それにしても、蛭なんじゃないかって推理は、ある意味当たってたんだなぁ。 旦那さん、生前も彼女に寄生気味だったようだから」
(文/川奈まり子)