【真田丸】関ヶ原は「毛利劇場」西軍総大将・毛利輝元の誤算
関ヶ原の合戦を知らない日本人はいないだろう。だが、東軍と西軍それぞれの総大将を正確に言える人はどれだけいるだろうか?
東軍の総大将は徳川家康で、西軍は石田三成。そう思っている人は少なくない。だが、それは間違いだ。石田三成はあくまでも前線指揮官に過ぎず、西軍の総大将は当時大坂城にいた毛利輝元である。
戦国時代を考察する上で、この人物は欠かせない。織田信長や豊臣秀吉のような派手さはないが、「中国地方の太守」としての影響力を存分に発揮した男である。
■毛利を支える「両川」
16世紀前半まで、中国地方で大勢力を誇っていたのは尼子氏と大内氏だった。だがその領有に挟まれていた毛利氏が、わずか30年ほどで尼子と大内を飲み込んでしまった。その覇業を成し遂げたのは毛利元就である。
そして元就は、当時としては長生きだった。その間に嫡男の隆元を失っている。そこで元就は、隆元の息子輝元に毛利本家の家督を譲り、彼の補佐をふたりの叔父に任せることにした。
「ふたりの叔父」とは、吉川元春と小早川隆景。毛利はこの「両川」に支えられていたのだ。
その効果が、1582年に発揮された。本能寺の変である。
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■秀吉の恩人
織田信長は中国地方の武力制覇を目論んでいた。その最先鋒を担ったのは羽柴秀吉、のちの豊臣秀吉だ。
だが、その最中に信長が殺される。そのため各方面に進出していた織田軍は、突如の撤退を余儀なくされた。
それは中国攻めに当たっていた秀吉も同じ。一刻も早く高松城攻めを終わらせ、明智光秀を討つために畿内へ引き返さなくてはならない。それはすなわち、毛利と和睦するということだ。
結果的に、この和睦は成立した。ということは、毛利内部にも「秀吉と和睦しよう」と主張する人物がいたということ。
その人物とは、小早川隆景である。彼は主戦論を唱える兄の吉川元春を説得し、秀吉と休戦するよう毛利を導いた。そして毛利輝元も、主戦論ではなく和平論を優先する性格だった。
これがのちのち実を結んだ。秀吉という男は、自分が受けた恩を決して忘れない性格。信長に仕える前に身を置いていた松下氏を大名にしたように、毛利と小早川を厚遇した。
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■「和平優先」が裏目に
ところで、隆景には最後まで実子がいなかった。だから養子をふたり取っているが、そのひとりがあの小早川秀秋である。
一方、吉川元春は4人の男子を作り、関ヶ原当時は三男の広家が吉川の家督を継いだ。だが広家は、だいぶ早い段階から徳川家康と内通。そして関ヶ原では、西軍につきながらただの一歩も進撃しないどころか、自陣後続の友軍をも釘付けにした。
西暦1600年の両川は、このような状態だったことを念頭に置かなければならない。
そして、毛利本家の当主にして西軍総大将を任された毛利輝元は、先述の通り大坂城にいた。これはいざとなったら、大坂城に籠城して家康を迎え撃つということ。
言い換えれば、東軍VS西軍の決戦がたった1日で決着するとは誰も思っていなかったのだ。
だが、吉川広家と小早川秀秋の裏切りで関ヶ原の戦況が東軍に傾き、さらに輝元が家康との和議に応じてしまった。「毛利本家を安堵する」という条件と引き換えに、輝元は大坂城を明け渡す。休戦条約を優先する輝元の性格が、結果的に西軍を敗北させた。
関ヶ原の合戦は、まさに「毛利劇場」だったのだ。
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