黒柳徹子、第二次世界大戦中のエピソードを語る 出兵した父・守綱さんは…
黒柳徹子が戦時中の食糧難などについて語った。開戦当初は実感がなかったと伝えている。
女優の黒柳徹子が12日、自身のYouTubeチャンネル『徹子の気まぐれTV』を更新。第二次世界大戦を経験したときについて語った。
■実感がなかった開戦
1941年、第二次世界大戦中に日本がアメリカなどの連合国と戦うことになる太平洋戦争が開戦。当時は8歳だった黒柳がそのときのことを回想する。
開戦当初、日本軍からの通達がラジオで流されていたそうだが「そういうものをみんな聞いてないじゃない」とのことで、最初は実感がなかったという。
聞き手をしていたファッションデザイナー・田川啓二氏から「国民全体が『戦争始まるぞ』っていう感じじゃなかった?」と聞かれると、「私の家のほうではそうじゃなかった」と答えた。
近隣の人に召集令状が届いて「『兵隊さんに行くんだな』と思って、そういうときに『戦争になってるんだな』っていうふうに思いましたけども」と話している。
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■食糧難に陥る
日本が戦争状態に入ると、食べ物が手に入りにくくなり「お店が開いてない、閉まっちゃってて。お魚屋さんとか、お肉屋さんとか」「お菓子は全部ないわね、もう。気がついたときには」と食糧難だったことを説明。
食べ物を買える機会が少なくなり、人の行列ができているのを見たら「何が売ってるのか分からないけど並ぶ」こともあったという。
しかし次第に店では物が売られなくなり、配給制に切り替わったそう。
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■父・守綱さんも戦地へ
黒柳の父でバイオリン奏者だった守綱さんにも出兵の命令が届いた。中国やシベリアに出征した守綱さんは捕虜になったが、終戦後に無事帰国。
東京・品川で父と再会したときは「ちょっと恥ずかしかった」と黒柳は振り返る。守綱さんは、心身が疲弊した日本の捕虜を癒やすためにバイオリンを弾く役割を務めていたという。
「ソ連からバイオリン渡されて『弾け』って言われて、日本の捕虜の慰問して。それで遅くなったんです、父が帰ってくるの」と、日本の捕虜の中でも最後のほうに帰ることになった経緯を話した。
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■語り継ぐ想いを示すファンも
黒柳の動画を見たファンからは、「貴重なお話ありがとうございます。もう戦争を語れる人も少なくなり、徹子さんみたいに当時の記憶を細かい描写で分かりやすく伝えてくださる方はそうそういないと思います」「戦争の記憶がどんどん薄れていく中、おつらい思い出を話してくださってありがとうございます」と反響が集まった。
「戦争は絶対に繰り返してはいけないと子供、孫の世代にも必ず伝えていきます」「貴重な体験談を心に刻みたいです」との意志をつづるファンも見られる。