【真田丸】戦国時代と大航海時代 「貿易の富」が戦乱を終わらせた
日本の戦国時代とは、言い換えれば「大航海時代」である。
ヴァスコ・ダ・ガマがヨーロッパからインドへ通じる航路を発見したのが、1498年である。そこからヨーロッパのアジア進出は一気に加速した。
アフォンソ・デ・アルブケルケのマラッカ占領が1511年、その2年後にポルトガル人がマカオに到来した。
こうした世界史の流れを踏まえなければ、戦国時代の全容が見えてこない。ヨーロッパ人の海洋開拓と日本の戦乱期が重なったのは偶然だが、日本人はヨーロッパからもたらされる様々な利益を活かして戦国時代を終息させたのだ。
ここでは当時のヨーロッパと日本の情勢を、時系列順に観察してみよう。
■ヨーロッパ人のアジア到達
ポルトガル人のマカオ到達から4年後、日本では有田中井手の戦いという出来事があった。
これはあの毛利元就の初陣として知られる合戦だが、ここで元就は敵将武田元繁を見事に討ち取っている。毛利の拡大はここから始まったのだ。
もしここで元就が敗北していたら、その後の日本史は大きく変わっていたかもしれない。
当時の中国地方は、尼子氏と大内氏が勢力を二分していた。その中で毛利氏は時と状況に応じてそれぞれの陣営に味方していたのだが、とくに大内氏は対外交易に積極的な家でもあった。
1528年、大内義隆が家督を相続するとその傾向はますます強くなる。
大内義隆という人物は戦国向きの性格ではなかったものの、その政治手腕は一流である。山口を国際港にして、近隣諸国と盛んに貿易を行なう。
ちなみに彼が家督を次ぐ6年前、1522年にヨーロッパで人類初の世界一周達成という出来事があった。
そこから日本とヨーロッパとの距離が、さらに近くなった。1543年には、マッチロック式マスケット銃を持った3人のポルトガル人が種子島にやって来る。
これが有名な「鉄砲伝来」だ。そして1549年、カトリック宣教師のフランシスコ・ザビエルが鹿児島に来着した。
ヨーロッパの視点から見れば、これがいわゆる「ジパング発見」である。
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■山口は「日本一の都」だった
ところで、この当時の京都は日本の「首都」であるにもかかわらず、長く続く戦乱で荒廃していた。
京都そのものよりも、京都に憧れていた大内義隆が整備した山口のほうが栄えているという始末である。当時の両都市の明暗については、ザビエルもしっかり書き残している。
ところが対外交易に力を注いだ義隆は、1551年に家臣の陶晴賢の謀反により殺されてしまう。以後、義隆が山口に溜め込んでいた貿易利権や海外伝来の最先端技術は日本全国に分散する。
そして1560年、もはや説明不要の桶狭間の戦いが発生した。ここで頭角を表した織田信長は、「大内義隆の後継者」とも表現すべき先進性を身につけていた。
ただし義隆と違うのは、信長には「武」の面も備わっていたということだ。
信長は軍隊を整備し、ひたすら西へ進んだ。その目的は堺の港である。ここをかつての山口のように国際港として開発し、巨額の富を得る。
そのために、「東の抑え」として徳川家康と同盟を結んだ。このような発想は天才にしかできない。
だがこの頃、ヨーロッパでは地殻変動が起きていた。1578年、当時のポルトガル国王セバスティアン1世は無謀なモロッコ遠征を行なった。
進軍と敵陣攻撃だけを考慮し、補給やいざという時の退却路などを一切取り入れないという無謀な計画だった。この遠征で、セバスティアン1世は行方不明になる。遺体が確認されなかった、ということだ。
セバスティアン1世は24歳で、子供を残していなかった。そのためポルトガル王位継承問題が発生し、結局はスペインに「同君連合」という名目で吸収されてしまう。
スペインの力は増大し、それと同時にイングランドとの間の摩擦が一層激しくなった。
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■家康の実力
関ヶ原の合戦が起きた1600年当時、ヨーロッパではカトリックVSプロテスタントの争いが頂点に達しつつあった。
関ヶ原の直前、徳川家康はとあるイングランド人と知り合った。ウィリアム・アダムスである。彼はヨーロッパの最新情勢を余すことなく家康にもたらした。
つまり家康は石田三成と戦った時点で、ヨーロッパの勢力図や各国の思惑というものを把握していたことになる。このあたりだけを見ても、組織官僚に過ぎない三成との間に大きな実力差がある。
そして最後は、海外事情に精通していた者が天下を取った。一口に「外国勢力」と言っても様々あり、今自分たちはどの勢力と接近すればより有利になるのか……ということを義隆も信長も家康も熟知していたのだ。
大航海時代は、日本人から見れば「大外交時代」と言うべき時期だったのだ。