「高度成長期のシンボル」ジャイアント馬場が名誉市民に
プロレスラーの故・ジャイアント馬場が新潟県三条市の名誉市民になった。
これは市民団体が前々から呼びかけ、署名も集めた結果、実現したもの。ジャイアント馬場は、昭和中葉の日本文化史に欠かせない。敗戦国が持ち前の工業技術を再生させて奇跡的な経済成長を遂げる中、馬場はその先駆けとしてリングの上で戦った。
この巨人は、今や日本史上の歴史人物になったと言っても過言ではない。
■プロレスとテレビ
かつて読売巨人軍に、馬場正平という投手がいた。
2mを優に超える身長の持ち主で、同時に絶妙なコントロールピッチャー。二軍の最優秀投手賞を3度も獲得し、脳腫瘍手術からたった1週間で回復するほどの堅強な肉体すら持っていた。
だが、ファンやマスコミの視線をかっさらうほどの巨体がチーム内で敬遠され、馬場は1軍に定着できない。その後大洋ホエールズに移籍するも、風呂場での転倒事故で選手生命を失う。
そんな過去を持つ馬場がプロレスのリングに足を踏み入れると、そこが自分にとっての「エデンの園」だとすぐさま気がついた。
昭和30年代のプロレスは、家電メーカーと運命共同体のような関係を結んでいた。力道山時代から日本のマット界は三菱電機がスポンサーを務めていたが、その理由はプロレスとテレビの極めて高い親和性である。
オフシーズンがなく、室内で試合ができ、なおかつ放送時間内に確実に終わる競技。それはプロレスしかない。だからこそ当時のプロレスラーは、家電製品の広告塔をも担っていたのだ。
誰よりも大きな身体を持つ馬場は、まさにうってつけの広告塔。
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■莫大な収入を得る
馬場の活躍は日本だけに留まらない。彼はアメリカでも大成功を収めた。
当時、アメリカのプロレスの本場といえばニューヨークか五大湖周辺都市。馬場はこれらの地域の大会場をいつも満員にした。一方で師匠の力道山は、日系人の多いハワイかカリフォルニア州でしか戦えなかった。馬場は師匠を凌駕していたのだ。
当然、馬場には莫大な報酬が支払われていた。ところが実際は、大部分が力道山の手元に回されていたという。常に外貨を欲していた力道山は、完全に馬場の収入に頼り切っていた。それだけ馬場が稼ぎまくったのだ。
しかし、師匠にピンハネされた分のカネなど馬場にとっては微々たるもの。
恐るべき巨体の馬場は、天性の運動神経とアメリカ仕込みのダイナミックなスタイルで日本のマット界を席巻。力道山死後のプロレス人気が急落しなかったのは、ジャイアント馬場がいたからである。
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■「大きいことはいいことだ」
馬場の全盛期は、日本の高度成長期とピッタリ重なる。
苦労は多かったものの、当時の日本人は年々上がる所得に胸を躍らせていた。
去年はテレビを買い、今年は洗濯機を買った。来年は冷蔵庫、5年後はマイカー…。そんなペースで少しずつ豊かになり、「アメリカにはもう負けない」自信を取り戻しつつあった。
アメリカから来る外国人レスラーも、フィジカルでは馬場に勝るとも劣らない。むしろ上体の分厚さは馬場以上。だが試合が始まると、リング狭しと躍動し相手を叩き伏せる。それは力道山の空手チョップよりも遥かに迫力のある光景だった。
この頃はまだ、子供たちが近所の広場で三角ベースを楽しむことができた時代だ。森永エールチョコレートのCMのキャッチフレーズ「大きいことはいいことだ」が流行語になったのは、1967年のこと。日本国民はひたすら拡大路線を信じ、上昇志向に身を任せた。
ジャイアント馬場は、日本の黄金期のシンボルだったのだ。
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