【真田丸】防御戦の名人・幸村を支えた「ふたつの要素」とは
真田幸村は、言い換えれば「防御戦の名人」だった。
近代以前の戦争は、攻撃側よりも防御側が圧倒的に有利。要塞を攻略するには守備側の3倍の兵力がなければ不可能と言われていたほどだ。今は戦車などの装甲兵力が使用できるためその限りではないが、それでも防御側は様々な事前準備を用いて作戦に臨むことができる。
とはいっても、防御側はまったく安心できるわけでもない。まず、要塞は孤立しやすいのだ。攻撃側に包囲されたら、それを解くまで一歩も外に出られなくなる。
そういう危険もあるから、真田丸に陣取る幸村も強大な心理的プレッシャーの中で戦っていたはずだ。
■防御戦と「裏切り」
拠点防御にまず必要なのは、「自軍の団結の確保」である。
これが筆で書くより難しい。たとえばとある城が、数万の敵軍に囲まれた状態で戦っている。外へつながる補給線も連絡線も絶たれてしまった。こちらの食料の備蓄は、残り1ヶ月分。
すなわち防御側の将兵の「寿命」は、あと1ヶ月しかないということだ。その事実を知った者は、敵前逃亡する可能性が極めて高い。または敵軍と内通して反乱を起こすかもしれない。
そうした危険をセーブし、敵軍撤退まで戦い抜いたのは他でもない真田昌幸。2度の上田城防御戦の際、徳川軍の圧倒的な兵力を前にしながら真田軍の団結は揺るがなかった。だからこそ内通者も出なかったし、反乱とも無縁だったのだ。
この逆の例が、若き日の毛利元就がその才能を発揮した鏡山城攻防戦である。ここに陣取るのは蔵田房信と、その叔父の蔵田直信。このふたりはもともと、蔵田家の家督を巡っていがみ合っていたのだが、元就はそれを利用して直信に反乱を起こすよう仕向けた。
その思惑は成功し、堅城だった鏡山城は陥落。防御要塞は外からの攻撃には強いが、内圧には脆い。それを見越した攻撃側の勝利である。
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■最後まで諦めない
また、防御戦には「諦めない闘志」も重要だ。
攻撃側が要塞の中に入れば、あとは区画ごとの陣取り合戦。中庭は制圧したが屋敷そのものはまだ防御側のもの、という状態が発生する。だから攻撃側が要塞の大部分を手中に収めたとしても、残りの区画を攻める余力がなくなり突然撤退することも。
代表的な例を挙げれば、1815年にヨーロッパで起こったワーテルロー会戦の一環、ウーグモン邸攻防戦が当てはまる。ワーテルロー会戦自体は平野の只中で行われた野戦だが、戦闘区域にあったウーグモン邸をイギリス軍があらかじめ制圧していた。
皇帝ナポレオン・ボナパルト率いるフランス軍は、ウーグモン邸に大兵力を注いだ。これは本来は陽動作戦だったようだが、現場指揮官でナポレオンの弟ジェロームはウーグモン邸占領にこだわった。
フランス軍はこの邸宅を会戦終了まで攻撃し続けたが、イギリス軍は最後まで粘る。ウーグモン邸は陥落せず、結局はフランス軍の撤退という形で戦闘は終わりを迎えた。
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■家康の「誤算」
真田丸の兵は、このふたつの要素を兼ね備えていた。
徳川家康は、斜陽の豊臣家に仕える兵がここまで精強だとは考えてもいなかったはずだ。1614年の時点で、天下はすでに「徳川のもの」。そうである以上、圧倒的に不利な状況下に置かれた豊臣方の将兵がまともな防御戦などできるはずがない。家康はそう考えていただろう。
だが、現実は違った。「団結の確保」と「諦めない闘志」を両手に持った真田丸の兵は、迫り来る徳川軍を次々に粉砕。
これこそが、祖父の代から受け継がれてきた「真田マジック」ではないだろうか。
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