東日本大震災から12年、都心から最も近い「大津波被災地」飯岡の町はいま
東日本大震災から丸12年。津波による甚大な被害を受けた場所のうち、最も都心に近かったのが千葉・旭市。町はあれからどう変貌を遂げたのか。
ちょうど12年前となる2011年3月11日の14時46分、未曾有の被害を生んだ東日本大震災が発生。マグニチュード9.0の地震は大津波を起こし、都心にもほど近い千葉・旭市の「飯岡地区」にも甚大な被害をもたらした。飯岡の町はいまどうなっているのだろうか、追った。
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■小さな港町を襲った津波
九十九里浜の最北端に位置する小さな港町・飯岡。記者が育った故郷だ。きれいな砂浜に温暖な気候、そして外房ならではの高い波があり、夏になれば海水浴客、サーファーが集まり町は賑わった。海沿いにはとれたての魚介類を提供する店が並んでおり、まさに「海」がこの町の源だった。
そんな町に、津波の第一波が到達したのは地震発生から約1時間後のこと。理容室「オオヤ理容」を切り盛りする大矢セツ子さんは、ちょうど夫・英夫さんと家で食事をしようとしていた時に大きな揺れを感じた。
「立っていられないくらいの激しさで、床に転がったんです。その直後、防災サイレンが鳴った…らしいけど、それを聞いたのも覚えていないくらい混乱して。『津波が来るから逃げよう』とお父さん(英夫さん)に言われ、近くの小学校に慌てて避難しました。防災リュックも家にはあったんだけど、逃げるのに夢中で持っていくことも忘れて。持っていったのはカバンとコート、あと小銭だけだったかな。無意識だったのか、水の入ったペットボトルも手に持ってましたね」(大矢さん)。
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■偶然木につかまって九死に一生
近くの小学校に到着し、3階から海を眺めた。すると真っ黒な高波が町に向かって押し寄せてくるのが見えたという。
「今まで見たこと無い海の様子。船は沖に出さないと波でやられっちゃうから、数隻の漁船が波に向かって進んでいくのが見えて。心配でしたね。それで、しばらくすると津波が引いて余震も落ち着いたんです。そんな時『そうだ、今のうちにお父さんの持病の薬だけは取りに行かなきゃ』と一度小学校を出ることにしたんです」(大矢さん)。
第1波は一部住居の浸水だけで済んだ。しかしこの町の悲劇は地震発生から約2時間40分後である5時26分ごろに起こる。高さ7.6mもの「第3波」が襲いかかったのだ。
「店の戸締まりをして表に出た瞬間、『ゴォォォ』と激しい音を立てて真っ黒い水が一気に押し寄せてきた。あっという間に水に飲まれ、足が付かない状態で流されちゃってね。路地裏に桜の木があって、そこに偶然つかまってどうにか助かった。周りには小屋とか自動車がどんどん流されてきて店も全壊。それはそれは恐ろしい光景でした」(大矢さん)。
震災に関する千葉県内での死者・行方不明者は23名。犠牲者の大半が飯岡地区を中心とする旭市内における津波被害だった。
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■ファインダー越しに見た悲惨な現実
「地震発生時はPCで作業中でした。慌てて外に出て家の揺れを諦めの気持ちで見てましたね。これは酷いことになるなと」。創業から64年、“飯岡のカメラ屋さん”と地元で親しまれている「イシゲ写真」2代目店主でプロカメラマンの石毛良二さんは当時の様子をこう回顧する。
石毛さんはすぐ車を出し、近隣に一人で住む親族たちを迎えに行った。「その途中で津波が到来。道路が水没したと聞き、山側の道を選んで移動しました。しかし家の近くまで行ったところで、『これ以上は行けない』と教えられ、そのまま近くの知り合いの家で一晩過ごしたのです」(石毛さん)。
翌朝、徒歩で自宅に戻る際、海沿いの建物が次々破壊されている光景を目にした。
「ここではじめて町の惨状を知りました。これはカメラにおさめなくてはと思い撮影しましたが、その時は長靴を履かずに出てしまったので移動がままならず、一部の様子しか写せずでした。こんな事が起こるのか? 水の力はこんなに恐ろしいのかとファインダーを通して肌で感じたのです。生きているうちに、こんな予想も出来ない事が起きるものなのかと。しばらくは呆然とするしかなかった」と絶望感に打ちひしがれたという。
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■過疎化が進む中「光明」も
津波の影響で、海岸沿いの住居、店舗は軒並み損壊。人気のホテルもサーファーショップも瓦礫の山と化した。
「12年過ぎ、町は過疎が進み活気がまだ戻りません。でも、人の強さは感じますので教訓を忘れない事で人は生きていけるとも思います。2年程前に最新の防潮堤も完成しましたが、まだ町には空き地も多く寂しさは拭えません」と石毛さん。
記者が久しぶりに故郷の地に降り立つと、町中に無機質な“鋼鉄の塔”が立っていることに気がつく。津波用の「避難タワー」だ。2018年には約500人が避難できる人工の山「日の出山公園」も地区内に完成した。堤防のかさ上げ工事も完了しており、海沿いにはサーファーや釣り客の姿も見える。
町中には旭市防災資料館が2014年に建てられ、当時の記憶を次世代に伝えている。この建物にも非常階段があり、津波発生時の避難場所となっていた。
地元男性に話を聞くと、「以前と比べてだいぶ安心して住める町に戻ったと感じます。震災の影響で中止されていた夏の花火大会も令和元年に復活。1万発の花火が打ち上がり、観光客が戻ってきた感じがしました。海水浴場の再開が待たれていますが、それはまだ行われていません。今年の夏にはきっと復活すると信じています」と打ち明けてくれた。
震災から12年。都心から最も近い場所で大津波の被害を受けた飯岡の町は、明日へ向かって着実に歩み続けている。
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(取材・文/Sirabee 編集部・キモカメコ 佐藤)