【川奈まり子の実話系怪談コラム】中古の自転車【第十七夜】

2015/06/10 19:00


第十七夜用

美容師の山田さんは、1年前、中古の自転車を買った。勤めている原宿の美容室の近所で、たまたま見つけたのだとか。

「前から自転車が欲しいなぁと思ってたんですけど、ちゃんとしたのは結構高いし、でもデザインや何かにはこだわりたいから、なかなか買えずにいたんですよ。そうしたら、すぐそこのリサイクルショップに良いのがあって……」

アルミフレームの国産クロスバイクで、ライトやバックミラー、スタンドまで付いて、5,000円。

いつも雑誌やネットショップで自転車をチェックしていた山田さんは、同じものを新品で買えば50,000円ぐらいすることを知っていた。

目立つ傷も無く、本来なら別個に買いそろえなければならないライトなどの備品も付いて、本来の値段の10分の1、たったの5,000円というのは破格である。

そのとき彼は休憩時間で、あと15分で店に戻らなければならなかった。

「迷ってる場合じゃないと思って、大急ぎで買って、あとで取りにくるって言って預かってもらったんです。そうしたら、夜、閉店前に、そのリサイクルショップの人がこの店に自転車を持ってきて……」

リサイクルショップの方が、山田さんが勤めている美容室よりも閉店時刻が早かったのだ。

山田さんは美容室の店長に断って、自転車を店の裏に置かせてもらった。そこには車1台分の駐車スペースがあり、いつも店長が使っていた。

「店長の車に傷をつけないように気をつけて、出口に近い隅っこに自転車を置いたんです。そのときになって初めて、カギが付いてないことに気づきました。

よく考えたら、こういう格好いいバイクって、カギが付いてないんだよなぁって……。慌ててたから、買ったときは思いつかなかったんですよ」

その駐車スペースは路地に面した露天で、当時は門のようなものは無かった。

「危ないかなぁ、でも、まさか盗られないだろうって……。うちの店もあと30分ぐらいで閉めるところでしたからね」

少し心配しつつ、スタンドを掛けて自転車をそこに停めて、仕事に戻った。

やがて閉店の時刻になり、山田さんが店の床掃除をしていると、閉店の札を出しに行った店長が奇妙な表情をして帰ってきて、「裏に置いたんじゃなかったのか?」と彼に訊ねた。

自転車がね、店の出入り口のすぐ横にあったんですって。びっくりしました。

ええっ、じゃあ誰かが移動させたんだって言って、外に出てみたけど、もうわからないですよね。近くに怪しい人影とか、無いし。なんで裏からここに持ってきたんだろうって、店長だけじゃなく他のスタッフとも話して、でも、みんな、わけわかんないって言って……。

なんか、僕は、早く乗れよって自転車に催促されてるみたいな感じがそのときして、たしかそのときも冗談めかしてそう言ったって記憶があります」

幸い、自転車には汚れも傷もついておらず、この辺も治安が悪くなったなあ、などと会話して、そのときはそれだけで終わった。


山田さんの自宅は四谷にある。原宿駅からJRに乗ってもいいが、彼の美容室は表参道駅に近いので、地下鉄を利用することが多いという。

東京メトロの半蔵門線と丸ノ内線を乗りついで行くわけだ。

「僕って思いつきで行動する癖があって、それでよく失敗するんですよ。そのときも、いざ帰るときになって、あっ、電車に乗るのに、この自転車をどうしようって焦り始める始末で……。」

自転車を持ったまま電車に乗れないこともないが、その晩は雨も降っておらず、気候も良かった。

「ちょうど去年の今頃のことで、寒くもなく暑くもなく、いい風が吹いていて、夜の10時頃でしたから、このあたりの道路はそろそろ交通量が減って道が空いてくる時刻でした。

それに、前に一度、Suicaを失くして、店から家まで歩いたことがあったので、道順もわかってました。そうじゃなくても、表参道から四谷駅なんて単純な道じゃないですか。だから、これは乗って帰れってことだろうと思っちゃったんです


道に迷うはずはなかった。

ところが、走り始めてしばらくすると、周囲の景色が思っていたのとは違うことに山田さんは気がついた。

「初めはあんまり気にしてませんでした。店が入れ替わったんだろうとか、道路工事をやったんだろうとか、その程度に思って。

でも、そのうち、一戸建ての住宅街みたいなところに差し掛かっちゃって、本当なら赤坂見附の辺を走ってなきゃおかしいんだから、いくらなんでもこれはヘンだぞと……」

山田さんは路肩で止まって、スマホで現在地を確認することにした。地図上の青い点として自分の位置が表示される、グーグルマップのサービスを利用したのだ。

時刻は夜10時半。出発してから30分近く経っていた。

本来であれば、そろそろ四谷に差し掛かっていてもおかしくないと山田さんは思った。そのぐらいの距離を走ったような実感があったのだ。

しかし――。

「目を疑いましたよ。だって、三鷹市の地図がいきなり出てきたんですよ! グーグルが壊れたと思いました。どうして表参道から四谷に向けて走ってて、三鷹市に来ちゃうんですか。そんな馬鹿なって、パニック状態になりました」

しかし、何度操作し直しても、三鷹市内の地図が表示された。

深大寺のあたりだったそうだ。

「普通の一戸建てが多い住宅街で、まだ窓に明かりが点いてる家が多くて、何にもおかしなところがない風景でした。ただ、僕がそこに居るってことを除けば」

山田さんは、すっかり怖くなってしまった。そして不意に尿意をもよおした。昔から恐怖を感じるとトイレが近くなる性質だったのだ。

そこで、トイレを借りるため、コンビニエンスストアを探すことにした。

三鷹市の深大寺の地図を表示しているグーグルマップを信用するならば、そこからほんのわずかな距離のところに、コンビニエンスストアがあるはずだった。

はたして、コンビニエンスストアはスマホに表示されている地図通りの場所にあった。

「トイレ借りて、ついでに飲み物を買って……すごく恥ずかしかったし、迷ったんですけど、店員に、ここはどこか訊いてみました。そしたら、やっぱり三鷹の深大寺って言うんですよ」

レシートに印刷された日付や時刻にもおかしな点はなかった。

「僕がこんな所に来てしまったということ以外には、普通の世界が続いてるって感じでした。僕だけが、おかしいんだ。そう思ったら、変な汗がダラダラ出てきました」

しかし、とにかく帰らなければならない。

「明日も仕事がありますし……。普通にね。普通に仕事があるわけで、だから早く帰って寝なくちゃいけないって、そのときは凄く焦って、そう思ったんです。

今、考えると、あのとき僕、相当テンパってたなってわかるんですけどね。だって、それどころじゃなく奇妙なことになってるわけじゃないですか。

たった30分で表参道から深大寺まで自転車で行けるかなぁ、とか、道をちょっと間違えたってレベルじゃないぞ、とか。でも、無意識に、なるべくそういうことは思わないようにしてたんですね。怖いから」


コンビニエンスストアを出て、彼は再び自転車に乗った。もはや精度を疑う必要がなくなったグーグルマップの情報に頼って、最寄り駅を目指した。

時刻はすでに11時近い。慣れない自転車漕ぎで体力を使い、精神的な消耗も激しく、疲れ切った気分だった。

自転車ごと電車に乗って帰る以外に選択肢はないと考えた。

「それなのに、また道に迷ったんです」

住宅街の同じ場所に戻ってきてしまい、山田さんは驚いて再び自転車を停めた。

「黒っぽい屋根の、2階建ての家なんですけど、一度前を通り過ぎたなぁと思ってたら、また同じ家の前に差し掛かって、あれ?って思って……」

築年数がそれなりにありそうな、しかし、手入れの良い、変わったところのない家だった。山田さんによれば、「2世帯家族で住めそうな大きめな家」だそうだ。

門扉は閉じており、カーポートに自家用車が2台あった。

山田さんはその家に前で自転車を漕ぐ足を止め、途方に暮れながらスマホでまた現在地を確認しようとした。

すると、どこかで犬が激しく鳴きはじめた。

「どうも、その家の飼い犬が吠えだしたようでした。小型犬の鳴き声で、かん高くて、キャンキャン、すごく煩いんです。

それで、あ、ヤバイと思って、とりあえず、そこから離れようとしました。近所迷惑だし、家から人が出てきたら、不審者扱いされちゃいますからね。なんでそこに居るのか、説明しても信じてもらえっこないでしょ?」

しかし、そのとき、彼の後ろの方角から、その家の住人が徒歩で帰ってきた。

「カツカツってハイヒールの足音がして、別に振り向きもせずにやりすごそうとしてたんだけど、いきなり『タカシ』って叫んで、走ってきたんですよ。振り向こうとしたときには、もうすぐ後ろに居て、ガシッと僕の肩を掴んできて……。

僕と同じか、もうちょっと年上ぐらいの女の人でした。大きな会社に勤めてるような雰囲気の、髪なんかも手入れが行き届いてて、本当だったら綺麗な人だと思うんですけど、そのときは、なんか物凄い顔をしてて……」

山田さんは20代前半で、その彼が同じか少し年上ぐらいというのだから、若い女性である。彼女は、恐ろしく強張った表情で、まなじりが裂けるほど目を見開いていた。

「オバケだ!って冗談じゃなく思いましたよ。出たぁって。そのぐらい、凄い形相。でも、すぐに、人間だってわかりましたけど。それでも、えっ、ぐらいしか言えませんでした。えっ? えっ?……って」

幸い、女性はすぐにハッと我に返ったようすを見せて山田さんを放し、謝った。

そして、自転車に乗っている姿がよく似ていたので弟かと思ったのだと言い訳をした。タカシというのは、弟の名前だったのだ。

山田さんが納得すると、彼女はその自転車をどこで手に入れたのかと彼に訊ねた。

「おかしなことを訊くなぁと思ったけど、正直に答えました。原宿のリサイクルショップだと言ったら、店の名前まで詳しく知りたがったので、教えたんですよ。

すると、スマホのメモ機能ってあるじゃないですか? あれを開いて店の名前を書いてるんです。だから、これは盗品とか、そんなんじゃないと思いますよって、その人に言ったんです。

弟の自転車が盗られるかどうかして、探してるのかもしれないと、咄嗟に思ったから。そしたら、その人はまた僕に謝って、そんなことを疑ってるわけじゃないと言って、それから、なぜここに来たのかって質問してきたんで……困りました」

本当のことを話せば、狂人扱いされてしまいそうだと山田さんは思ったそうだ。

そこで「道に迷って……」と言うだけにとどめた。

「でもね、それしか僕は言ってなかったのに、その女の人は、何かすべてわかったみたいな顔をしたんですよ。それで、その自転車はきっと弟の物だから、お金は払うし家まで車で送るので、出来ればここに置いていってほしいって言ったんです。

僕は、自転車が勝手に店の裏から移動したときからずっとびっくりし通しでしたけど、また驚いて、ええっ?って……。なんでそんなことわかるんですか?って言いました。

置いていけなんて、とんでもないこと言うなって、ちょっと頭にきたし。でも、その人も強情で、押し問答になりかけたんです。その間も、犬がずっとギャンギャン吠えてて、少ししたら、家の中から年配の女性が出てきて……」

それは、その女性の母親だった。彼女もまた、山田さんを見るなり血相を変えた。

娘が母親に事情を説明した。すると、母親も、自転車を置いていってほしいと彼に懇願しはじめた。

「僕は、そのタカシって人は同じ車種のクロスバイクに乗ってただけじゃないかと思いますよって言って、抵抗しました。

自転車なんて、大量生産されてる工業製品なわけで。確かに中古だけど、名前が書いてあるわけじゃないし、もしかしたらシリアルナンバーから元の持ち主を割り出す方法とかあるかもしれないけど、今、会ったばっかりなんだし。何を根拠にそんな……って思うじゃないですか?

それに、たった5,000円でこんないい自転車が手に入ることなんて滅多にないでしょ? だから僕も必死で、だけど相手も2人がかりだし、異常にしつこいし……しつこいから、なんだか怖いし。

もう振り切って漕いで走って逃げちゃおうかなぁと思ったんです。ところがね……そのときのことを思い出すと、未だに鳥肌が立っちゃうんですけどね……」

母と娘に2人がかりで説得されそうになっている最中も、彼は自転車にまたがったままだった。

立ち話が長くなってきて、その姿勢が少々辛くなり、体重を掛けていた足を踏み変えた――その瞬間、バックミラーの端に顔の一部が映った。

見知らぬ、若い男の顔が。

「今でも後悔してるんですが、あのとき、見間違えかと思って、もう1回、しっかり見ちゃったんです。二度見ってやつです。やらなきゃよかった」

やはり、そこに映っているのは自分ではなかった。山田さんは悲鳴をあげて自転車から飛び離れた。

倒れた自転車は、「タカシ」の母親が、悲しそうな顔で引き起こした。


結局、その自転車は、そこに置いていくことにしました。

ちょっと待っててと言われて、母親の方が家に走っていってお金を持ってきて、それから娘さんの方がすぐに車を出してくれて、家まで送ると言うのを、さすがに申し訳ないんで遠慮して……そのとき、僕がどこから来たのか、ついうっかり話してしまいました。

口を滑らせて、四谷に住んでるって言っちゃったんですよ。それで三鷹駅まで送ってもらうことになったんですけど……。ええ、乗り替え無しで帰れる駅ってことで、三鷹に。

そのことがきっかけで、車の中で、表参道から帰るつもりだったのに、なぜか深大寺のあの家に前に来てたんだって、結局、全部話してしまいました。

馬鹿にされるかと思ったんですが、その女の人は運転しながら、静かに泣きだしたんですよね。大丈夫ですか?って僕が心配したら、あなたには関係ないことですから、お気遣いなくって言われちゃいました。

三鷹駅には、わりとすぐ着いたから、そんなに色々話す時間もなかったんですけどね。

駅とか電車とか、すごく普通で……駅前の景色がって意味ですけど、とにかく普通に夜の三鷹駅なもんだから、なんだか夢を見てたみたいだって感じがしました。

でも母親って人に貰った封筒を持ってるから、現実なわけですよ。

女の人の車が行っちゃってから、その場で封筒を開けてみたんです。そしたら、50,000円も入ってて、またびっくりしました。

電車の中も、四谷に着いて、帰ってきた自分のうちも、普通で、いつもと何も変わらないんですよ? でも50,000円がある。代わりに、自転車は無い。

普通だったら今日買ったあれを漕いで、とっくに家に帰って、テレビを観てるか、風呂に入ってるか、もしかしたらもう寝てるわけだから、これは全然、普通じゃないよなぁって……。

すみません。何言ってるかわかりませんよね。普通って、口癖で。

いいじゃないですか? 普通。普通がいちばんですよ。オシャレは少しとんがってるのもいいけれど、あんなふうに普通じゃなく道に迷うのとか、二度と御免ですよ。

気持ちの悪いところはないですか? 流し足りないところは?

いっぱい話した分、しっかりシャンプー出来ました。あはははは。話せて楽しかったです。誰にも信じてもらえませんからね、こんなことは。

怖い話ですか? 他にはありませんよ。霊感、無いし。

ああ、そうそう。あれと同じ車種の自転車を新品で買ったら、店長に気味悪がられましたけどね。

気が知れないって。

乗り心地がいい自転車だったし、50,000円って、新車を買った場合の代金ってことでくれたんだろうと思ったから、買っただけなのに」


美容室を出て、店の裏手の路地に行ってみた。

駐車スペースがあり、自家用車が停めてあった。新しく取り付けたものらしい門扉に、自転車がワイヤー錠で留めつけられていた。軽そうなフレームのクロスバイクで、バックミラーが付いている。

私は顔を近づけて、その鏡の中を覗き込んでみた。

(文/川奈まり子

コラム美容師怪談自転車
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