川奈まり子の実話系怪談コラム 廃墟半島にて(後編)【第三十五夜】
先週に引き続き、AV撮影現場で起きた数々の怪奇現象を川奈まり子さんが書き下ろします。
――首吊り死体が、そこに。
そんな馬鹿な。私は笑い飛ばした。
「だって入ったとき、死体なんか無かったわよ! 本当に人が立ってるんじゃなきゃ、何かの見間違いでしょ。木か鉄骨の影が、そんなふうに見えてるんじゃない?」 メイク係は何か言いかけて思いとどまり、肩をすくめて、ぎこちなく笑顔を作った。
「そうだよね。みんな、あの中で撮影してるんだもんね」
「うん。死体なわけないじゃん。しかもあんな目立つ所にあるわけない」
「……昨日から私、怖いなぁ怖いなぁってずっと思ってたから、だから首吊り死体に見えちゃったのかもしれない」
メイク係によると、今日泊まる熱海のホテルがある錦ヶ浦という場所は、自殺の名所なのだそうだ。
昨夜、彼女はそれを同棲している相方から聞かされ、以来、ずっと怖がっていたらしい。
「500人以上死んでる有名な心霊スポットだっていうのよ」
「それって、みんなも知ってるのかしら。さっきのADさんも?」
メイク係はうなずいた。
「知ってると思うよ。テレビでやってたそうだから。……あっ、私、今朝、あの子にこの話をしちゃったんだった。まずかったかなぁ? 神経の細そうな子だから、それでお腹が痛くなっちゃったのかしら。あのADさんも怖がらせるようなこと言ってたし……」
あの日、いったい何人が首吊り死体あるいは背が高い男のシルエットを目撃したのかはわからない。
廃墟の汚い床に、スタッフの誰かが担いできたマットレスを敷いた上が私のいわばステージで、そこで男優と絡んだ。
ビデオカメラが回り出す前、男優は嘆息して、監督に訴えた。
「無理ですよ。そこで誰かが首吊り自殺したわけでしょ? 俺、幽霊とかマジで苦手なんですよ。萎えちゃって、出来ませんって」
疑似でもいいという監督の許しが出て、男優と私は台詞だけは緊迫感があるが、実際はマット運動に近い何かを30分ばかりやって汗だくになった。
しかしシャワーも無い。
それどころか、外のどこかで見張りをしていたスタッフから撮影現場に無線が飛び込んできた。
「撤収だ。海側から誰か上がってくるらしい」
「あんな崖、上がってこれるんですか? それって人間じゃないんじゃないの?」 「上がってくるのが見えたって言うんだから上がってくるんだろう! 撤収、撤収!」
――首吊りの次は投身自殺かよ、と、誰かがボヤいた。
熱海に向かう道すがらも、幾つかの廃墟を見た。
廃墟というのは、いわば建物の死骸だ。
1つ2つならまだしも、何軒も見ていると次第に気が滅入ってくる。
すぐ後ろの座席から会話が聞こえてきた。
「不景気ってのは最悪だな。ああいうホテルじゃ、経営者がずいぶん首吊ったらしいよ」
「首吊りの話は、もう勘弁してくれ」と、これは私と絡んだ男優の声。
「飛び降りも多いって。今夜泊まるホテルのすぐ近くは有名だよ。テレビも取材に来たんだってさ」
「もうやめてくれよ」
錦ヶ浦には創業60年以上になる老舗の某リゾートホテルがあり、崖の上の平地は無論のこと、その下の断崖絶壁から海辺に至る、錦ヶ浦の付近一帯を所有している。
たしかに、投身自殺に向いていそうなロケーションではある。
海を臨む崖は弓型に長く、険しく、目が眩むほど高い。
しかし、この崖を含めて錦ヶ浦に続く海岸線は全て、件のリゾートホテルのプライベートビーチだ。
外部の者が無断で出入りすることは出来なくなって久しい。ホテルの敷地内の崖に近づくのも難しい。
私たちが宿泊した約17年前で、すでに敷地内の危険な崖の上のテラスなどには高い柵がはりめぐらされていた。
今はさらに管理が徹底されて、安全度が高くなっていると聞く。
容易には飛び降りられないのだ。
ずっと以前は、ここで海に身を投げると、独特の潮の流れで、沿岸にある洞のひとつに遺体が流れついて留まり、そこに死体がたまってしまうというような、あまり生々しく想像したくないような現象も見られたそうだ。
けれども、ホテルの管理が進んだ今では、問題の洞がどこにあるのかもわからないほど、海沿いの環境が人工的に整備されている。
そんなこんなで、投身自殺が本当に多かったのは昭和恐慌の頃(1930~31年/昭和5~6年)がピークであって、近頃はさほどではないという噂には、一定の信ぴょう性があると思われる。
……が、簡単ではなくなったとは言っても、飛び降りることが絶対に不可能になったわけではない。
また、インターネット上には、錦ヶ浦にまつわるここ数年内に語られた新しい怪談も散見できる。
ホテルが管理している海岸線だけでなく、この近くのトンネルの中、海辺に臨む「監視小屋」で怪異に遭遇してしまったという話も多い。
ホテル内でも、度々幽霊が見かけられるという。
このリゾートホテルのサイトをさっき確認してみたら、最低でも1泊1万円前後はするので少し驚いた。
インターネットの無料動画が普及してから、そしてリーマンショック以降は加速度的に斜陽になった昨今のAV業界では考えられないが、この頃はまだ、こんな良いホテルにスタッフと出演者が全員泊まることが出来たのだ。
当時は、スタッフの人数も、景気のせいばかりでなく、ビデオカメラの性能が現在ほど優れていなかったせいもあって、今よりずっと多かったものだ。
鮪の一刀斬りショーという、日本刀のような長包丁を用いて板前さんが時折歌舞伎役者じみた見栄を切りつつ鮪を捌く、よくわからない見せ物を観賞した後、夕食をとり、出演者の一部を除いて、朝まで自由行動を取ってよしとされた。
私は、共演するAV女優2人――W主演の――と相部屋になった。
部屋は本来はダブルベッドが2つあるツインルームだったが、2つのベッドの足もとに簡易ベッドを1つ置いて、3人用に用意されていた。
簡易ベッドはシングルサイズで見るからにちゃちな造りだった。遠慮合戦が始まる前に、私はそこに自分の荷物を置いた。
撮影中に腹痛を起こした女優は窓側の、もう1人は廊下側のベッドに寝ることになった。
ホテルには、天然の温泉を引いた大浴場があった。
3人で連れだって大浴場へ行った。
腹痛を起こした方の女優は顔色が優れず、この後まだ撮影があるのだとこぼした。
「監督の部屋で撮るんだって。簡単なシーンだって言うけど、でも、もう疲れた」
彼女は私たちより先に風呂からあがった。
部屋に戻らず、監督のところへ向かうと言っていた。
私ともう1人は、それからも、のんびりと湯につかった。
大浴場はほどよく混んでいて、非常に居心地が良かった。
思う存分温泉を愉しみ、のぼせそうになって渋々あがった。
ちょうど浴衣を着終えたとき、脱衣場にメイク係がやってきた。
メイク係は、「……ちゃんは?」と腹痛の女優の名前を出して私たちに訊ねた。
私たちは顔を見合わせた。
「ずいぶん前に行きました。20分か……30分は経ってると思いますよ」
「来ないのよ。私も監督たちと待ってたんだけど。部屋に戻ってるのかしら?」
3人とも、部屋の鍵を預かっていた。
体調が悪そうだったから、勝手に部屋に帰って休んでいるというのは、如何にもありそうなことだった。
ところが、メイク係を伴って部屋へ行ってみたものの、そこには居らず、また、帰ってきた形跡も見当たらなかったのだ。
スタッフ全員で手分けして彼女を探すことになった。
私ともう1人の女優は、部屋で待機するようにと言われた。
もしかすると、彼女は、ひょっこり部屋に帰ってくるかもしれない。
現れたら、すぐに監督の携帯電話に電話を入れろと言われた。
しかし、彼女は一向に戻ってこなかった。
部屋で2時間ほど待った頃、メイク係が再びやってきた。
「……ちゃん、見つかったよ」
しかし、到底、何かをさせられる状態ではなく、急遽、私が彼女の代役を務めることになったという。
「言ってることが支離滅裂で、顔つきもおかしいし、ヘンなクスリでもやってるんじゃないかって、みんな言ってる」
タクシーを呼んでもらい、制作スタッフ1人とマネージャーが付き添って、東京へ帰らせることにしたという。
「彼女の私物はどこ? 持っていかなきゃ。もうタクシーが来ちゃう」
窓際のベッドの上にあったバッグや衣服などをまとめてメイク係に手渡し、私は監督の部屋へ向かった。
撮影が終わり、部屋に戻ると、もう零時を回っていたのに、もう1人の女優がまだ起きていた。
心細そうな顔をしていた。
「ねえ、あの子、本当は自殺したんじゃない?」
私の顔を見るなり、そんなことを言うのである。
「どうやって?」
「温泉で海の方を眺めてたら、何かがドボンと海に落ちた気がしたの。もしかしたら、……。あいつ、初めからちょっと陰気で病気っぽくなかった?」
あいつ呼ばわり。嫌いだったのだろうか。
私が黙っていると、さらに、「思い切ったことをやりかねないタイプよ。きっと自殺しちゃって、みんなグルになって誤魔化してるんだ」と続けた。
私は、あまり妄想を膨らませない方がいいと諭し、もう簡易ベッドを使う必要はないので、窓側のベッドに入った。
「よく平気ね。ドボンってなった辺りって、そこの真下だと思うのに!」
しかし、そこの窓は大きく開かない構造になっていた。
私がそれを指摘しても、彼女は自分の妄想を諦められないようだった。
「だけど、痩せた女の人なら少し無理すれば出られるんじゃない? 川奈さんだって」
縁起でもないことを言うのである。
窓の外には、多くの人々を呑んだ夜の海が、果てしない闇を敷き広げていた。
奇妙なこと続きのロケだった。
この翌朝には、前夜、例の女優に付き添って行き、午前三時に東京からとんぼ返りしてきた制作スタッフが、怖い話を披露した。
そのとき私たちは、全員一緒に朝食の席を囲んでいた。
「昨日の夜、タクシーでホテルを出た直後でした。
ここからすぐの所にトンネルがあるんですが、そのトンネルに入るときに、彼女がいきなりマネージャーさんにしがみついて、怖い怖いと騒ぎ出したんですよ。
それで、マネージャーさんと僕がなだめようとしたら、前の方を指差したんです。
ええ、前の方というのは、トンネルの中ですよ。
照明は点いてたけど、薄暗くて……でも、何かがいるのが見えました。
だんだんタクシーが進んで……男の子が2人、石蹴りみたいなことして遊んでるのがわかって、僕もマネージャーさんも悲鳴をあげちゃいました。
だって子供ですよ? 5、6歳か、7、8歳か……とにかく小さな子たちです。
そんなのが、真夜中なのに、あんなところで遊んでるって、ありえないでしょ。
しかも、そいつら、こっちを見たんです。
僕らを見て、笑いかけてきたんですよ! 思いっきり笑顔になってんですよ!
思わず目をつぶっちゃいましたよ。
そんで、縮こまってガタガタ震えてたら、しばらくして運転手さんが「もういいですよ」って言ってくれて……。
目を開けたら、トンネル抜けてました。もう、なんて言うか、普通の夜の景色でした。
運転手さんは、どうやら前にもあそこで幽霊に遭ったことがあるみたいでした。
子供を見たときも「おっ」ぐらいしか言ってませんでしたしね。
あと、「よく出るんだよ」って呟いてたから、そう思うってだけですけど。
ええ。運転手さんに詳しい話を訊く気にはなれませんでしたよ。
だって、怖すぎて。
彼女とマネージャーさんは眠ってました。
トンネルで気絶して、そのまま眠っちゃったんじゃないですか?
東京の事務所に着いて、そこで2人とも起こしましたけど、女の子もマネージャーさんも何を言ったらいいかわからないみたいな顔をして、色々謝ったりしてくれたんですけど、それもしどろもどろで……。
僕も同じような感じでした。
事務所のバンを転がして戻ってくるように言われてたんで、そうしたんですけど、あのトンネルを通るのがどうしてもいやで、迂回してきたんですよ。
……あれって、やっぱり幽霊だったのかなぁ?」
この後、私は、撮影中に腹痛を起こしたり姿をくらましたりしたあのAV女優に再び会うことはなかったが、トンネルの子供の話が本当なら彼女は死んではいないのだろう。
もう1人の女優は、制作スタッフの話を聞いてから、なぜかいっそう暗い面持ちになり、私ともあまり会話したがらず、気まずいまま別れた。
ひょっとすると、「ドボン」というのは、彼女の願望だったのかもしれない。
そうだとしたら、それもまた、とても怖いことではある。
(文/川奈まり子)