【川奈まり子の実話系怪談コラム】タクシーの夜【第三十夜】
つい最近のことだ。
私はいつものように、住んでいるマンションの前で通りかかったタクシーを手をあげて止めた。まだ午後5時にもならなかったが、すでに日は落ち、群青色に沈んだ景色の中で赤い空車のランプが目立っていた。
タクシー運転手は五十がらみの男性で、会社で定められたブレザーをきちんと着込み、白髪が目立つこと以外、これといって特徴のない外見の持ち主だった。 彼自身よりも、彼のタクシーの方が、個性を主張していた。
運転席の座席の後ろから、後部座席の方に向けて、弁当箱サイズの小さな藤籠が吊り下げられていたのだ。
籠の中には、個包装された飴が入っていた。「いちごミルク」や「カンロ飴」といったどこのスーパーでも売られているポピュラーな飴が、ひとつかみばかり。
「麻布十番へ行ってください。墓地中を通って斎場の角を左折して……」と私は行き先を告げた。
墓地中というのは地元の住人と、この界隈の地理に詳しいタクシー運転手の間でだけ通じるスラングで、港区南青山の青山霊園内にある中央の交差点を指す。
タクシー運転手でも新人だと通じないが、その運転手は知っていて、私が言い終わらないうちに察しをつけて後を引き取ってくれた。
「突きあたりを右で、六本木トンネルを抜けていけばよろしいですね。鳥居坂下から右折しますか」
そうしてもらうことにして、私は背もたれに背中をつけてくつろいだ姿勢を取ろうとした。
すると、すかさず運転手が言った。
「お客さん、もしよかったら、そこの飴をつまんでください」
私は「ありがとう」と言って、飴をひとつ取ったが、すぐに舐める気はしなかったので、持っていたバッグの内ポケットにしまった。
そして、あらためて背もたれに体重をあずけてリラックスした。
タクシーが走りだした。
「ちょっと変なことを聞いてもよろしいでしょうか。……お客さん、もしかして、昨日もこの車に乗りませんでしたか」
そう運転手に訊ねられたのは、墓地中で信号待ちをしているときだった。
たしかに私はよくタクシーを利用するが、昨日は外出しなかった。そこでそう答えたが、彼は納得しかねるようだった。
「おかしいなぁ。実はさっきからずっと、そうじゃないかなぁと思って、チラチラ見てたんですが、見れば見るほどお客さんにそっくりだから。昨日の夕方4時半すぎですよ。
それから、夜の11時すぎ。ええ、偶然2回もお乗せしたんです。それで、珍しいこともあるもんですねとお話しして、手袋をお返ししたんです。ちょうど今、お客さんがはめているような灰色の手袋でした」
たしかに、私は灰色の手袋をはめていた。エレガントな細身のデザインで気に入っており、近頃はどこへ行くにも持ち歩いている。
しかし工場で作られた既製品であり、同じ手袋をはめた女は大勢いるに違いなかった。
「返したというと、初めに乗ったときに落としていったんですか?」
「ええ。降りられてすぐ気がついたんですけど、姿を見失ってしまって。ところがその人がまた乗ってきたんですよ。ちょっと凄いでしょう」
「ええ。滅多にないですよね、そんな偶然は」
「そうですよね。そういうことがあったし、それに、ショートカットで少し個性的な綺麗な女の人だったし、なんと言っても昨日の出来事ですから。まだ顔をはっきり憶えてるんですが、あれはお客さんだったと思うなぁ」
運転手はお世辞までまじえて熱心に話し、どうにかして私に昨日の女だったと認めさせたいようだった。
しかし、違うものは違う。
「違いますよ」
「そうですか。昨日も、夕方んときは、同じように墓地中を通って斎場の角を曲がって行ったんですよ。ちょうど今通ってる道ですよ」
運転手はハンドルを切り、タクシーは斎場のある角を左折して下り坂に入った。
ここからは、あと5分ぐらいで麻布十番に着く。
私は手袋を外してバッグにしまい、財布を取り出して千円札や小銭がちゃんと入っていることを確かめた。
下り坂を下りきったところに信号がある。車が止まり、目を上げると、赤になっていた。バックミラーの中で運転手と視線がぶつかった。
私を見ていたのだと思った。探るような眼差しに戸惑いを覚え、彼を少し不気味に感じた。
「夜にお乗せしたのは、ここでした。……昨日の話の続きですが」
「ここ?」
右が斎場で、左が霊園の角、突きあたりは住居ではない何をやっているのかよくわからないビルで、人が出入りするところを見たことがまるでない。
ようするに、人通りの少ない、寂しい交差点だ。
昼間ならジョギングや犬の散歩で近隣住人が通るが、夜更けてこんなところを歩く人がいるだろうか。ここらへんには男のホームレスが徘徊していて、近所に住んでいる者なら皆そのことを知っている。
女性がひとりきりで、夜中に歩きたい場所ではない。
「こうやって信号待ちをしていたら、助手席の窓を叩かれたんです。乱暴にじゃありませんよ。女性らしく控え目に、優しくコンコンと。でも心臓が口から飛び出しちゃうかと思いましたよ。
助手席の向こう側っていったら、ほら、そこですよ。墓地の木がこんもり繁って真っ暗になってるところの前です。窓を叩かれるまでは、そこに居たなんて全然気づきませんでした。
それが、音がして、見たら、真っ白な掌がガラスに貼りついて、女性が覗き込んできたんですから、思わず叫び声をあげそうになりました」
女は暗がりから現れ、助手席の窓をコツコツと叩いた。運転手が振り向くと、窓ガラスに片手を置いて運転席を覗き込み、「いいですか」と訊ねた。
運転手はギョッとしたが、すぐに気を取り直して後部座席のドアを開けた。 ドアが開くと、自動的に車内照明が点灯する。
照らしだされた女の顔を見て、運転手は再び驚いた。
それは、夕方このタクシーに乗って、手袋を忘れていった女だった。
「こんどは麻布十番の仙台坂へ行ってくれって。途中までは夕方んときと同じ道ですよ。せっかく麻布十番に行ったんだから、ずっと居ればいいものを、青山に戻って、またあっちに戻っていくなんてって思うでしょ。ねえ。
でも、まあ、そういうことは勘繰ってもしょうがないし……。それで、まあ、さっき言ったように手袋を返して……会話に一区切りついたら、その人が、仙台坂には幽霊が出るんだって話しはじめたんです」
「仙台坂といえば、運転手さんはご存知ですか。幽霊が出るんですよ。首の無い赤ん坊をおぶった女の幽霊が、泣き叫びながら凄い速さで坂道を駆け下りてくるんですって」
女は愉快な話をするときのように、笑みを含んだ声で、こう述べたそうである。
その話なら、麻布十番の郷土史料集のようなもので読んだことがあった。
江戸期から地元住民に伝わる言い伝えで、さまざまなバリエーションがあるようだ。母子の幽霊であるという点は一致しているものが多いが、女の幽霊が単独で現れるという話や、追い駆けて襲ってくるという話もある。
そう言えば、この先の六本木トンネルにも幽霊譚があったはずだ。
通りすぎてきた青山霊園にも。
信号が青になり、六本木トンネルがある右方へハンドルを回しながら、運転手は話を続けた。
「そんな話は聞くし、凄い偶然はあったしで、私は何だかおっかなくなってきちゃって、怖いのを誤魔化そうとしてね。
青山墓地で乗せた女の客は幽霊だったって有名な怪談があるけど、お客さんはちゃんと足がついてますかって冗談を言ったんです。
お足が無いのは困りますよって。本当に、あのときは笑ってもらいたかったですよ。寒気がしてたから」
ところが、私とよく似たその女はニコリともせず、こう言った。
「私が幽霊だったらどうします。これから行くのはお寺ですよ」
運転手は声真似し、バッグミラーに一瞬目をやった。
私は鏡越しに苦笑して見せ、「それで」と先を促した。
「そりゃもちろん、私は縮みあがって、お客さんやめてくださいよ、と。こんな時間にお寺さんに行くなんて、悪い冗談言っちゃいけませんって。そう言ったら、一応、ごめんなさいって謝ってくれたんですけど。そんなに怖がらないでって。だけどね、その後の一言が最悪で……」
運転手は再び私の反応を探ろうとした。
良いタイミングで怖いことを言って、私を脅かそうというのだろう。
その手に乗ってあげてもよかったが、その一言がどんなものだったのか、私にはだいたい察しがついてしまった。
そこで、バッグミラーで彼と目を合わせたまま、彼が言う前に、思いついた台詞を口にしてみた。
「そんなに怖がらないで。お寺に帰るだけですから」
運転手は悲鳴のような声で「勘弁してくださいよ!」と叫んだ。
「そうじゃなくても、私はまだお客さんが昨日の人じゃないかってまだ疑ってるんだから! やっぱり昨日の人なんだ! そうでしょう!」
「違いますよ。ごめんなさい。驚かせすぎちゃいましたね」
「本当に違うんですか。そっくりですよ! 声まで似てる!」
「そんなに……。でも、私じゃありませんよ。それで、それからその人を仙台坂の近くのお寺に連れていったんですか」
「ええ。二の橋の先にあるお寺でした。そこで下ろしました。……お客さんは鳥居坂下を右ですね」
「はい。商店街の通りに出たところで下ります」
「承知しました」
間もなくタクシーは目的地に到着した。私は会計をしようとして、うっかりして小銭を落としてしまった。百硬貨が1枚、床を転がって前の座席の下に入りかけた。
咄嗟に屈んで座席の下に右手の先を差し込んだ。
「大丈夫ですか」と運転手に訊ねられ、百円玉を捕まえることに成功した私は「ええ、なんとか」と答えたが、その瞬間、指先が何か柔らかいものに触れた。
なんだろうと思い、座席の下から手を引き抜くついでに、深く考えずにそれを引っ張り出して見てみて――背筋を凍りつかせた。
女物の灰色の手袋。
私が引き摺り出したものを見た途端、運転手の顔はうっ血したように赤黒く変色して膨らんだ。
手袋を見つめ、「あ、これは」と言ったきり、絶句している。
私は彼に手袋を押しつけ、釣銭の無いように料金を料金皿に放り込み、急いでタクシーを降りた。
その後、麻布十番で用事を済ませながら、いったいどういうことだろうかと私はひとしきり考えた。
女物の灰色の手袋を、彼は誰かに返したが、受け取った主が再び落としていったのか。
あの手袋は、落としてあったのではなく、彼があそこに隠していたということもありうる。
その場合、彼は殺人鬼だ。
女性客を殺して、戦利品を座席の下に隠した――などということは、ありえないだろう。
まったくわけがわからないが、確かなのは、この出来事には二つの偶然が存在しているということだ。
私と同じ外見の女が、同じ場所からタクシーに乗るという偶然。
それから、灰色の手袋。
運転手は、私がはめているような灰色の手袋だったと言った。そしてそれは座席の下から出てきた。誰かに返されたはずだったのに。
しかも、似たような手袋ではなく、まったく同じ品物だった。
工場で大量生産された手袋で、今期発売されたデザインだけれど、偶然の度が過ぎているように感じる。
用が済み、また私はタクシーを拾った。
こんどは麻布十番から自宅の方へ帰るのだ。
来たときから二時間ぐらい経っていた。夜の帳が今や完全に下り、気温もグッと下がっている。
道端でタクシーを待っていたのはほんの二、三分だったが、すでに凍えかけていた私は、後部座席のドアが開くとさっそく、暖かな車内に半身を乗り入れた。
ちゃんと乗り込む前に、運転手の方を見もせず「青山霊園の方へ行ってください」と告げた。
言い終わらないうちに、運転手がいきなり大声を発した。
びっくりして彼の顔を見て、私も悲鳴をあげてしまった。
来たときと同じ運転手だったのだ。
「お客さん、勘弁して! 四回目なんて無しですよ! 申し訳ないけど降りて! 乗せられませんよ! 怖いから!」
異論は無かった。私だって怖かった。いったい何が起きてるんだろう。
そのタクシーを降り、すぐ後ろに続けて来た別のタクシーに乗った。
前方の騒ぎを見ていたのだろう。すぐに「どうしました」と運転手に訊かれた。
乗車拒否されるようなことを何かしたのかと疑われるのは心外だ。
そこで私は、「話せば長くなりますが」と前置きして、さっきのタクシー運転手から聞いた話も含めて、今日の出来事をすべて打ち明けた。
誰かにさっさと話してしまった方が恐怖が薄まるようにも感じて、喋りだすと止まらなくなり、飴を1つもらったことまで話した。
「奇妙なお話ですね。不思議だなあ! その手袋も、結局返していなかったのか、また忘れていかれたのか、謎ですね。冬は忘れ物が多くて、よく落ちてるんですけどね。手袋に限らず色んなものが……。こないだなんか、靴を忘れていかれましたよ。脱ぎたてのホヤホヤの革靴でした」
こんどのタクシー運転手は怖い話の語り部ではないようだと思い、私は大いに安堵しながら、調子を合わせた。
「そんな大事なものを落としていく人がいるようじゃ、もう何が落ちていても驚きませんね。鞄とか」
「鞄なんか当たり前。今さら驚きません。何が驚いたって、女性用のパンティが置き忘れられてたのにはびっくりしたけど。しかも使用済み! おっと失礼」
「いえいえ。面白いです」
「本当の話ですよ。私の同僚なんか、犬を置き忘れられたって。犬ですよ! なんでもありです。まあ、お客さんも忘れものには注意してくださいね。ところで、もう霊園まで来ましたけど、ここからはどのように……」
「墓地中を通って、根津美術館の交差点を右に曲がって、小学校の横あたりで降ろしてください」
「はい。かしこまりました。……そうだ、お客さん、飴をもらったとおっしゃってましたよね。その飴、食べない方がいいと思いませんか。なんか悪いものを貰っちゃいそうじゃないですか。何もかもただの偶然なんだとしてもね」
「たしかに」
私は住んでいるマンションに入ると、エレベーターに乗る前に、建物の端にあるゴミの集積場に立ち寄った。
そしてバッグの内ポケットを探ってみて、またしてもゾッとする破目になった。
――飴が3つあったのだ。
私と同じ灰色の手袋を嵌め、私がそうするように、もらった飴をすぐには食べず、バッグにしまう女がいるのだと思った。
彼女は、2回タクシーに乗り、その都度、飴をもらった。
そして夜中に墓地からお寺に帰っていった。
私は飴を3個ともマンションのゴミ集積場のゴミバケツに捨てた。
そして、私は本当に今ここにいる、過去から現在へと記憶が連続したこの私だけだと思おうと努めた。
そうに決まっているからだ。
しかし、あれから何日か経つのに、そのことに関して未だに完全には自信を取り戻せずにいる。
私は二重人格なんだろうか。
でも、よくよく考えると、例の女が私だとすると、手袋が一双、宙に浮いてしまう。だから、やっぱり別人に違いない。
ならば、ドッペルゲンガーというものだろうか。
ドッペルゲンガーと出逢ったら死んでしまうそうだから、もしそうだったのなら、今回はニアミスで済んで幸いだったわけだ。
それとも女は幽霊で、あの運転手は化かされていて……。
それとも彼は殺人鬼で私のと同じ灰色の手袋の女を殺して以来、異様な妄想に取り憑かれていて……。
どの想像も真っ暗闇で行き詰まり、あの夜から一歩も先に進めない気分である。
(文/川奈まり子)