世紀の冤罪・袴田事件 再審を求めて袴田巌さんの姉・秀子さんが特派員協会で会見
1966年に起きた事件で一貫して無罪を主張しながら死刑判決を受け、48年間拘禁された袴田巌さん。姉・秀子さんが再審を求めて記者会見した。
■死刑の恐怖心・絶望から妄想に
保坂氏は筆者に袴田さんの心境について次のように語った。
「袴田さんが最後に反応したのが、静岡地裁が再審請求を棄却した1994年です。刑務官に聞きましたが、袴田さんはじっと棄却文を読んでいたそうです。
それ以降、精神に異常を来し始めたようです。察するに、無実であるにもかかわらず最高裁まで闘い抜いたのに死刑判決が下された。再審請求も棄却された。それに対して絶望を抱いたのではないでしょうか。
それとやはり死刑に対する恐怖心があった。恐怖心を消すために、自分が全能の神となり、死刑を廃止し、東京拘置所も廃止したという『夢の中』へ逃げたのだと推し量ります」
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■今も夢の中に
筆者は特派員協会で、秀子さんに、袴田さんの出所後の生活について質した。
秀子さんは「今は、巌の外出につきそう『見守り隊』のメンバーや私と、週の半分ドライブ、週の半分は今一緒に暮らしている浜松の町を散歩しています。釈放した後、巌と暮らす準備が整っていなかったため、2ヶ月は東京の病院に、1ヶ月は浜松の病院に入院させました」と語る。
消灯の時間の後に電気をつけてまわるとか、トイレに入った後、トイレットペーパーでドアのノブを何回も拭くということがあったという。
生活をともにしてからは、「一緒に暮らし始めた当初は一日10時間くらい家の中を歩いてまわりました。外にも出ませんでした。男性の人が来ると『面会謝絶』と言って会おうともしなかった。ラーメンを一度食べると、半年ぐらい毎日、ラーメンをたべるということもありました」と話す。
症状が少し改善されている例として「最近はあくびをするようになった。笑うこともあります」と語った。
■司法制度の前近代性があらわに
長く袴田事件を取材しているジャーナリストは筆者に「自分を苦しめたのが男性たちなので、女性の面会だと安心するようです。あと、毎日、日記をつけているんですけど、今でも支離滅裂。話すことも、”妄想”が多い。他方、散歩しているときに工事現場に出くわしたら、『ここにボクシングジムができるんだな』とふと、つぶやくこともある」と語った。
半世紀を超えて闘ってきた冤罪事件は、東京高裁で再審が始まることになる。そこで、完全に無罪判決が下されたときに、袴田さんにとっての勝利。しかし、それまでの時間は帰ってこない。日本の司法制度の前近代性に警鐘をならす事件といえるだろう。
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(取材・文/France10・及川健二)