信濃が舞台の『真田丸』 幸村の子孫が宮城県にいる理由とは

2016/02/24 11:00

真田幸村
※画像はNHK大河ドラマ「真田丸」のスクリーンショット

真田幸村(記録によれば、正しくは「信繁」)は、戦国時代を代表する武将のひとり。NHK大河ドラマ『真田丸』では、堺雅人が演じていることでも話題に。

幸村は、徳川家康を追いつめる勇ましい戦いぶりから「日本一の兵(ひのもといちのつわもの)」と称えられている。その生き様を振り返ってみよう。


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■大泉洋演じる幸村の兄・信幸とは敵同士に!?

真田丸
※画像はNHK大河ドラマ「真田丸」のスクリーンショット

戦国時代、戦の絶えない群雄割拠の中、信長の死後に秀吉が天下をとる。

秀吉が命を落とすと、家康が各地の武将を味方につけ勢力を拡大させていった。その立場をゆるぎないものにするまで、「関ケ原の戦い」や「大阪の陣」が続いたのだ。

「関ケ原の戦い」は、家康を総大将とする東軍と、石田三成を中心とする西軍との戦い。戦国の世の事情が絡み合い、幸村の兄の信幸は東軍に、幸村は西軍につき敵同士に

さらに、徳川勢と豊臣勢の戦いである「大阪の陣」でも、信幸は徳川勢に、幸村は豊臣勢につき、兄弟は再び敵になるのであった。

この大阪の陣で、幸村は家康を追いつめるほどの激闘のすえ討ち死に。一方、徳川についた信幸は、松代藩(長野県)の藩主になった。


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■幸村の子が仙台藩へ逃れられた理由

真田丸
©宮城県観光課

幸村の死後、彼の子孫がどうなったかご存知だろうか?

「家康を追い込んだ幸村の子が生き残るなど、もってのほか」という状況のはずだが、その子孫が「仙台藩」でかくまわれていた。それはなぜなのか。

じつは窮地に陥った幸村が、伊達政宗の家臣 「片倉重綱(しげつな)」に子供たちを託していたのだ。重綱は、大坂の陣で敵方だった仙台藩の猛将。片倉家は、白石城(宮城県白石市)の城主でもある。

仙台藩士の戦いぶりを踏まえた「幸村の判断」が、そこにはあったのだ。


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■伊達政宗公率いる仙台藩は…

真田丸
©宮城県観光課

幸村の死後、政宗や重綱らが暗躍し、幸村の息子・大八丸や娘たちを保護。幕府には、その存在をごまかすべく、大八丸に「片倉姓」を名乗らせ、別の家系図をつくったほどだ。

やがて大八丸は、現在の宮城県蔵王町に360石を与えられる。幸村の子孫は代々、仙台藩士として尽くしたが、幸村の死から約100年が過ぎたころ、真田姓を取り戻すことになり「仙台真田家」として現在も残っている。


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■蔵王町や白石市に残る子孫の歴史

真田丸
Ⓒ蔵王市観光物産協会

幸村の血脈が根付いた蔵王町では、『真田丸』の放映にともない行事が開催されている。『真田丸』にハマったら、幸村の子孫の墓や史跡が残る白石市、蔵王町にも足を運んでみるのも面白いはずだ。

(取材・文/しらべぇ編集部・大空美南

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