「南北朝」を避けるため?現代に「上皇」がいない理由

2016/09/24 05:30

geargodz/iStock/Thinkstock
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天皇陛下の「生前退位」議論が、日に日に盛り上がってきている。

とはいっても、一般国民の大半は生前退位に賛成だという。あとはそれをどのような形で実施するか、すなわち皇室典範を改正するか否かが今後の議論の争点になるだろう。

今現在の皇室典範は「上皇」の存在を認めていない。そうである以上、天皇は終生「天皇」であり続けなければならないのだ。

なぜかといえば、要は権力分散を阻止するため。日本史を紐解いてみても、天皇と上皇が乱立したために大混乱をもたらしてしまった時期が存在する。



 

■元凶はこの人物

第88代天皇の後嵯峨天皇という人物がいる。13世紀中葉、鎌倉時代の人物だ。

この後嵯峨天皇の長男は久仁親王、次男は恒仁親王。当然ながら、皇位継承順位は久仁親王のほうが上なのだが、後嵯峨天皇は次男を愛していた。彼は何が何でも恒仁親王を天皇にしたかったのだ。

そこで後嵯峨天皇は、まず生前退位を行い皇位を久仁親王(後深草天皇)に譲った。だがその皇位はわずか14年で、強制的に恒仁親王(亀山天皇)に回されたのだ。長子相続の面目を保ちつつ、愛する次男を天皇にするための最終手段である。

だが、これが朝廷分裂の元凶となった。後嵯峨天皇の死後、後深草天皇の系譜は「持明院統」、亀山天皇の系譜は「大覚寺統」になり熾烈な争いが勃発。


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■4つに分かれる

こうなった場合、天皇の地位が非常に流動的になってしまう。

持明院統と大覚寺統の争いは、互いの皇子を順番に天皇にすることでひとまず落ち着いた。ところがそれは、天皇即位と同時に対立勢力から「早く退位しろ」と催促されてしまう状況を生む。だからこの時代、上皇が何人も存在した。

さらに持明院統と大覚寺統、それぞれに後継者騒動が勃発し合計4系統に分岐。そのうちのひとつ、大覚寺統の第二皇子の立場だった後醍醐天皇が武士の力を結集して鎌倉幕府を倒し、政権を握ったのだ。


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■後醍醐天皇の失敗

だがこれは、大乱闘の第2ラウンド開始であった。

後醍醐天皇はカリスマ的人望はあったものの、政治は失敗続き。さらに朝廷再統一の強い志はあったが、それを自分の子孫のみでまとめようという選択は明らかな間違い。火に油を注いでしまったのだ。

後醍醐天皇の時代、朝廷は南北朝に分かれてその争いを継続させる。そして最終的に、後醍醐天皇の南朝すなわち大覚寺統は敗れ去った。現在の皇室は持明院統の直系である。

つまり、生前退位が政争を招いてしまった過去があるのだ。

現代でそうしたことが起こるとは考えづらいが、それでも「生前退位慎重論」が存在するにはわけがある。そしてその答えは、常に歴史の中に存在するのだ。

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(取材・文/しらべぇ編集部・澤田真一

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