【川奈まり子の実話系怪談コラム】熊取七人七日目七曲がり(下)【第四十夜】

2016/05/25 19:00


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――雨山神社は失われ、神踊りは廃絶されて、七曲りの呪術も忘れさられた。 雨山の魔や邪が頸木を解かれたら、自ずと里へ下りてくるのではないか――

その仮説を念頭に、熊取町の地図を俯瞰してみたところ、私はある特色に気がついた。

大阪府の泉南町から熊取町、そして岸和田市、松原市あたりまで、つまり大阪湾の東岸に面した大阪南部のこの地域には溜め池が非常に多いのだ。

熊取町は中でも“溜め池密度“が高い一帯にすっぽりと入る。

そして、私が黄泉平坂になぞらえた熊取町立斎場から「皆殺しの館跡地」に至る雨山の北東ラインの周辺(山の領域)には溜め池は少なく、阪和自動車道を超えて海沿いまで至る町の中心部(人の領域)に多い。


なぜ大阪の南部に溜め池が多いのか?

その疑問に答えてくれるのが、狭山池だ。

狭山池は大阪狭山市大字岩室にある日本最古の溜め池で、飛鳥時代前期に築かれたという説があり、『古事記』や『日本書紀』にも記述されている。

『六十二年秋七月乙卯朔丙辰、詔曰、農天下之大本也、民所恃以生也、今河内埴田水少、是以、其国百姓怠於農事、其多開池溝、以寛民業、冬十月、造依網池、十一月、作苅坂池、反折池、一云、天皇居桑間宮、造之三池也』(『日本書紀』崇神天皇紀)


<現代語訳>

(崇神天皇は)即位62年秋7月2日に詔を発して曰く、「農業は天下の大本であり、民の力に頼っているものだ。今の河内の埴田(狭山の「ハニタ=田」)には水が少ないため、その国の百姓は農業しない。そこで多くの池溝(水路)を拓くことで、民の業を広めよう」。冬10月に依網池を、11月には苅坂池・反折池を造成した。一説によれば天皇は桑間宮にこの三つの池を造ったとか


『次、印色入日子命者、作血沼池、又狭山池』(『古事記』垂仁天皇記)


<現代語訳>

印色入日子命(垂仁天皇の皇子)が、血沼池、また、狭山池を造る


狭山池の築造年は不確かであるとされ、崇神天皇説を採る4世紀から崇神天皇の孫にあたる“垂仁天皇の皇子”説の4から5世紀を経て、7世紀頃までと諸説ある。

1988年から行われた大規模改修工事の際に、狭山池に使用されていた木材が調査され、年輪年代測定結果で、616年(推古天皇24年)に伐採されたものだと判明した。

……なんにせよ、途轍もなく古い。

ようするに、大阪南部一帯では、きわめて早い時期から溜め池を造る技術が開発された。

なぜかというと、「埴田水少、是以、其国百姓怠於農事」だったから。

雨山では山頂の神社に水神・闇淤加美神を祀り、神踊りをして雨乞いの儀式を執り行った。

人々は、日々の暮らしのために、山の領域では神に祈り、人の領域では灌漑工事を行って溜め池を造ったのだ。

しかし、時代は変わり、祈りや呪いと共に、溜め池が本来持っていた切実な意味をも忘れられていった。


「皆殺しの館」のデマが生まれたのは、2ちゃんねるに最初の書き込みがされた2000年9月よりもおそらく前だろうということは先に書いた

「皆殺しの館」跡すなわち現在の成合寺跡地は、高速道路「阪和自動車道」に敷地が接しているが、この阪和自動車道が熊取のあたりまで開通したのが1980年代半ばから90年の間で、成合寺が不審火で焼失したのが93年。

高速道が開通したことで、山裾の小さい寺院は人目に触れやすくなったはずだ。その頃には無人の荒れ寺になっていたそうだから、そこらへんから「皆殺しの館」のデマが生まれたのではないかと思うが、建物の外観がおどろおどろしいというだけでは、根拠として弱い。

デマにしても、もっともらしい裏付けは必要で、その裏付けとなる出来事は、無人となった成合寺を多くの人が見るようになった90年頃から、寺が焼失した93年の間に起きた可能性が高いのではないだろうか。


1992年4月29日水曜日、熊取町内の溜め池の周辺でシンナー遊びをしていた若者たちがいた。

そのうちの1人、17歳の少年が、シンナーによる酩酊状態のまま溜め池に入り、溺死してしまった。ちなみに、1992年というのは尾崎豊が亡くなった年だ。

尾崎豊も生前、覚せい剤取締法違反(不法所持)の疑いで戸塚署に逮捕されているが、昭和50年代半ば頃から平成4年(1992年)頃にかけた時期には、少年の薬物乱用はシンナーと覚せい剤の二重構造になっていたとされており、各種のデータが発表されている。

当時、中高生が最初に手にする薬物がシンナーだった。

シンナー遊びを経て、非行がひどくなり、やがては覚せい剤に手を染めるのがおきまりのパターンで、少年のシンナー乱用と同時に覚せい剤乱用も急増していることが、数値を表すグラフ付きで昭和55年版犯罪白書で報告されている。

ところが、平成に入った頃から少年によるシンナーや覚せい剤の乱用は共に減少傾向になり、平成4年頃からは激減して、たった1年ほどでピーク時の半分を割り込むほど減ってしまう。

http://userdisk.webry.biglobe.ne.jp/001/892/56/N000/000/000/syounenntokubetuhou.gif

平成4年(1992年)の熊取町には、まだシンナーを吸引する少年たちが残っていた。

最初の犠牲者も、その1人だった。

彼は板金工だった。オートバイが好きで、『風(KAZE)』という暴走族の少年たちと繋がりがあった。

警察は彼の死を事故死であると判断した。


それから1ヶ月後の5月29日金曜日、前月に死んだ板金工と顔見知りの17歳の少年が自宅で急性心不全を起こして死亡した。

シンナーの常習者であり、副作用なのか肝臓にトラブルを抱えており、ひどく痩せていたという。

彼の死は、シンナー吸引中の事故死であるとされた。

板金工の友人と同じく、彼もまた、バイク乗りだった。

葬儀には『風(KAZE)』のリーダーが参列したという。


その約1週間後、6月4日木曜日、『風(KAZE)』の主要メンバーで、先に死んだ2人の1学年先輩にあたる17歳少年が自殺体で発見された。

熊取町には、名産品である玉ねぎを乾燥させる小屋が多い。そのうちの1つで彼は首を吊って死んでいた。遺書はなかったが、遺体のポケットと自宅の仏壇から友人たちから借金していた事実を示唆するメモが見つかった。

また、彼は死に先立つ半年も前から、「白い車」につきまとわれていると周囲に漏らしていた。

作家の鶴見済氏は、事件の翌年(93年)に出版された『完全自殺マニュアル』の中で熊取町の事件について触れているほか、当時、週刊誌『SPA!』で不気味ワタルという名義でこの事件を取材調査して記事にし、94年に出版した『無気力製造工場』という著作でも熊取の事件のルポルタージュを発表している。

鶴見氏によると、地元の人々の間では死んだ少年たちは実は何者かによって殺されたのだとする「他殺説」が有力だったそうだ。

白い車の関与は警察も疑い、「白い高級車」の目撃情報を中心に聞き込み調査をしていたというが、結局、関連性は無いものとされた。

自殺した少年もシンナーを常習しており、『風(KAZE)』やシンナー遊びを通じて仲間が多かった。彼の葬儀には『風(KAZE)』のリーダーも訪れた。

『風(KAZE)』のリーダーは彼の親友だったのだ。リーダーは、友を弔うために集まった仲間たちに言った。

「●●(死んだ親友)のぶんまで俺たちががんばって生きよう」


ところが、さらに1週間後の6月10日水曜日、そんなふうに生に前向きだったリーダーが納屋で首吊り自殺した。

彼もシンナー常習者で、補導歴があり、バイクの盗難や自販機を破壊する釣銭ドロなどの窃盗も繰り返す、地元では有名な不良だったそうだ。

その一方で親孝行の働き者であり、子分たちの面倒見もよく、非常に人望が厚かった。弱い者いじめはせず、挨拶が出来る子だということで、近所の人々の受けも悪くなかったらしい。

在校時には窓ガラスを49枚も割る事件を起こしたにもかかわらず、卒業した中学校の教師からも「いずれはひとかどの人物になるだろう」と評されていた。

葬儀には400名もの参列者がつめかけたという。

昭和時代の少年マンガに暴走族モノというジャンルがあって、その主人公もしくは主人公に近しい先輩に、彼のような人物像が描かれることが多かったような気がする。

根が優しい正義漢だがワルであり、不良たちのヒーローである、という“兄貴分”。

こういう少年はまず間違いなく不良少女にモテると思うが、実際、彼には将来を誓い合った恋人がいた。

彼女はその頃彼の子を身ごもっており、2人は近く結婚する予定で、新居を探していたそうだ。

また、前年に父が経営していた土建会社が倒産して手放した家を、両親のために買い戻してあげたいとして、一所懸命に働いている最中でもあった。

職業は建設作業員。元々、父の会社で就いていた仕事である。

自殺の前々日には、母親に、保温式のランチボックスを買ってくれと頼んでいる。仕事先に持っていくから、と。

母親は最後まで、息子が自死したことを認めなかった。

「肩をいからせて、前のほうを睨むようにして、こぶしをギュッと握りしめとったんですよ。(略)警察の人に私言うたんです。『これでも自殺なんですか』って。(略)」

「息子は確かに言うてましたよ。カローラやったと思うけど、白い車にいつも付け回されて『俺ヤバイんだよ』とか。(略)」(『不思議ナックルズvo.5 (2006.5.25)』より


不良少年は、家族の危機や愛する人の懐妊という洗礼を受けて、急速に大人になろうとしていた矢先だったのではあるまいか。

だからこその、「頑張って生きよう」という仲間への呼びかけである。

あれは、歯を食いしばって自分自身に言い聞かせた言葉でもあったに違いない。

新しい弁当箱を母親にせがんだのは、親友の死を乗り越えて家族のために生きていこうとする自分自身への褒美だったのではないか。

……そんな男が自殺するだろうか?


暴走族のリーダー(孝行息子)の意外すぎる自殺から2日後の6月12日。

この日、ある少年が約半年ぶりに熊取町に帰ってきた。

彼は、以前、町内の土建会社に勤めていたが、そこが潰れてしまったために、昨年、三重県鳥羽市の旅館に転職していた。

「友だちの葬式に出るので休みがほしい」と職場に告げ、休暇を取って熊取町に来たのである。

そう、彼は前の週に死んだ建設作業員、孝行息子で『風(KAZE)』のリーダーの、元同僚だったのだ。

転職前は『風(KAZE)』のメンバーでもあったが、旅館での勤務態度は優秀であり、服装や態度からも不良めいたところは消えていたという。

彼は肝腎の葬儀には間に合わず、13日の昼には、勤め先に、明日帰ると電話で知らせていた。

しかし、その後なぜか帰らず、熊取の友人宅を転々とした。そして16日には、かつての恋人に再会し、「近く結婚する」と聞かされた。

このすぐあとに、「ロープはないか?」と冗談を言っていたという友人たちの証言がある……が、その翌日に、両手をビニール紐で後ろ手に縛って首を吊るとは、誰も予想だにしなかったようだ。

6月17日水曜日、彼は、玉ねぎを乾燥させる小屋で死んでいるところを発見された。

違う小屋だが、6月4日に自殺した少年と同じである。異なる点は、旅館従業員の彼は、後ろ手に縛られていたということ。

ただし、警察は、自分で縛れる縛り方であるとして、首吊りの紐を自分でほどかないように念のため自ら手を縛ったのだと結論づけた。

自殺の2日前(15日)に、前の週に死んだ建設作業員の母が、彼に電話で、彼もまた「白い車」を目撃していたことを確認している。


6月25日木曜日――お気づきだと思うが、一連の不審死は水曜と木曜に集中している。例外は2人目の死者で金曜日だが、その次の死が木曜に訪れたことを考えると、前後の誤差は1日以内。

しかも、3人目以降は、ほぼ7日目ごとに死んでいる。

他にも『風(KAZE)』やシンナーとの関わりなど共通点は多い。

さて、6月25日には、熊取町在住の公務員が首を吊った。

彼は隣の岸和田市の職員で、熊取町の自宅から岸和田市に通勤していた。年齢は22歳で、今回、熊取町で連続死した中では最年長だ。

『風(KAZE)』と交流は一切無く、勤務態度は真面目で、岸和田市役所の陸上サークルに所属。マラソンが趣味だったという。

彼は熊取町と貝塚市との境にある山林で、遺体になって見つかった。

栗の木の枝に、着ていたシャツをロープ代わりに結びつけて首を吊っていたそうだ。

しかし、その枝というのが、恐ろしく高い位置に付いていた。

木の周囲には足台になるような物も見当たらなかった。件の枝は、ジャンプしても絶対に手が届かない高さだ。ロープを放り投げて引っ掛けるならともかく、シャツを巻き付けて、それで首をくくることなど出来ようか?

そこで地元の人々は今回も「他殺説」に傾いたが、またも警察は自殺だと判断。

そしてなぜか、事件後すぐに、問題の栗の木は伐採処分されてしまった。


熊取町内には私立大阪体育大学がある。

キャンパスは、偶然、雨山の山裾の斎場・ダム・成合寺という3つの虚構の心霊スポットを結ぶ直線の延長線上に位置している。

7人目は同大学の体育学部の学生だった。この年の4月に入学し、鳥取県の実家から熊取町内の下宿に引っ越してきたばかりの19歳の女性である。

彼女がこの連続死事件における最後の死者になった。

6人目の市職員の死の7日後、7月2日木曜日の夜、8時40分頃、下宿からほど近い熊取町立町民グラウンドの脇で彼女は発見された。

グラウンドの横の側溝に倒れていたのだという。そのときはまだ息があり、近くに果物ナイフが落ちていた。

左胸に致命傷となった刺し傷があり、首筋の4ヶ所に切り傷があり、発見時にはどの傷からも激しく出血していた。

血まみれで、こう訴えていたという。


違う、違う


彼女は、病院に搬送後、3日午前2時10分に出血多量で死亡した。

体育学部では陸上競技を専門にし、死の2日前に1000m走で自己ベストを更新したばかりだった。

死んだ日の夕方には、普段と変わらないようすで、近所のスーパーマーケットで買い物をしていた。

また、彼女は「黒い車」に追われていると生前、友人たちに話していた。

しかし警察は、首筋の傷を「ためらい傷」であると見做して、彼女の死は自殺であると断定した。

事件が起きた日にも現場近くに車が停まっていたという情報もあったようなのだが、それが「黒い車」なのか、それとも少年たちを追い回していたという例の「白い車」なのかまでは伝えられていない。


7人目の遺した「違う、違う」という言葉の意味は、ごく単純に解釈するなら「自殺ではない」あるいは「私ではない(人違いという意味で、犯人に対して)」ということになるかと思う。

不審な点が多い7件の死の現場は、半径1.2km内に、ほぼ収まる。

同じ町内の、自分と年齢の近い若者たちの連続死を、7人目の彼女が知っていた可能性は高い。

しかも、白と黒の違いはあれど、車に付け回されているという状況も類似している。「白い車」の目撃談は3人目が死んだ直後の6月初旬からマスコミでも報じられていたようだ。

7人目の女子大生は、怪しい自殺と車を関連付けて考えていたかもしれない。

「これは自殺と違う。私は殺されたの」と訴えたかったのか。

それとも、前々からつけ狙い、ついに殺害しようと襲ってきた犯人に向かって、「人違いしているのではないか。何か悪いことをした人がいたとしても、それは私とは違う」と言って必死で抗った、その瞬間を頭の中で繰り返し再現し、うわごとを呟いていたのか。


謎を多く残したまま、熊取町の7人連続死事件は幕を閉じた。

7人。およそ7日ごと。

1992年の4月から7月にかけて起きたこの事件が、成合寺が「皆殺しの館」と呼ばれることになってしまったデマの遠因になったのではないかと私は思う。

直接には何ら関係がないが、デマが発生したのが「無人となった成合寺を多くの人が見るようになった90年頃から、寺が焼失した93年の間」であるとすれば、ちょうど時期的にマッチする。

短期間に集中して起きた謎の怪死事件の噂は、事件の関係者から遠い人々によって面白おかしく歪められて、やがて同じ町内にある不気味な廃墟(実際には無人になった寺)に、具体的な根拠は皆無のまま、ただイメージの上でのみ、結びつけられたのでは……。

それにしても、熊取町は「七」に奇妙に縁がある町だ。

雨山の七曲り。

七人連続死事件。そのうち5人は約7日目ごとに死んだ。

そして、2003年5月20日、熊取町七山で、当時小学4年生の少女が忽然と姿を消した。

当日の夕方から捜査が続けられ、13年後の現在は「捜査特別報奨金300万円」が大阪府警察によって公示されているが、いまだに手がかりすらつかめていない。

七山――またしても「七」だ。

七山には七山神社があるが、初めにここに御社が祀られたのは天平15年(743年)で、当時、この辺りは「七里村」と呼ばれていた。藤原氏の荘園だったという。


熊取町にまつわる「七」のつく逸話は他にもある。

それが「七人庄屋」と「八ツ地蔵」で、「七人庄屋」は、江戸時代、現在の貝塚市の一部を含む岸和田市の西側から泉南市にかけた地域から、この一帯を治めていた岸和田藩が選び出した七人の有力者のことだという。

藩主・岡部氏が、岸和田藩の領内の各村から経済力と政治力に長けた強者を選抜し、名字帯刀を許して「七人庄屋」と名付け、行政的な役割をさせていた。

熊取町(当時の熊取谷)からは、中左近と降井左太夫という2人の庄屋が選ばれた。 七人庄屋は村役人の中でも最も格式が高いとされ、武具や登城する際の正装用の衣服のほか、藩主にお目見えする権利や時候の挨拶伺いの義務まで付与された。 熊取町の「七人庄屋」中家と降井家の家屋は現存し、それぞれ「中家住宅」「降井家書院」として、国の重要文化財に指定され、見学が可能である(降井家書院は毎年11月初旬の土曜日、日曜日の午前中のみ特別公開)。


「八ツ地蔵」は、熊取町野田地区にあるお地蔵様だ。

7ではなくて8ではないか、と思われるだろうが、これが面白くて、名ばかり「八ツ」で、実際には、ここには「七ツ」しか地蔵がない。

祠が造られたのは昭和初期より前のはずで、というのも、その頃まで、ここには「八ツ地蔵松」と呼ばれていた松の大木があったという記録が残っているからだ。

そういうわけで少なくとも90年か、たぶん100年以上は前に建てられた石造りの祠があるのだが、祠が建立されたとき、そこに八体の地蔵を納めようとしたら、七体しか入らなかったのだという。

そこで、残り一体を大原に持っていき、祠に入れられた七体をもって「八ツ地蔵」としたそうだ。

どうしても「七」にこだわりたかった熊取の土地神様のしわざであろうか、と思ってしまいたくなる変わったエピソードである。


ちなみに「七」という数字には、日本においては、西洋における「ラッキー・セブン」や「七つの大罪」のような絶対的かつ重大な意味は無いとされているようだ。

中国の陰陽五行説の思想では、「一、三、五、七、九」の奇数を吉としたが、ご存知のように日本の神話では奇数を特に吉であるとはしていない。

むしろ「たくさん」「とても多い」という意味での「八」を古代の日本人は好んだ。

日本神話の中には「八(や)」「八十(やそ)」「八百(やお)」「八千(やち)」といった言葉が頻出する。「八岐大蛇」は本来、「多くの知恵を持つ山の神」であったと考えられている(武光誠『八百万の神々の謎』より)。

「七」については、七福神や七夕などがあるが、どれも神仏習合精神や中国由来の風習や伝説がもとになっている。

七個一組の概念は世界中に見られ、日本にも仏教の「七宝」がもとになった「七つ道具」をはじめとする7つでワンセットにするパターンがある。

江戸期の岸和田藩の「七人庄屋」はそれだろう。

しかし雨山の「七曲り」は中国の陰陽思想の影響を受けた呪いのようだ。

すべては、単なる偶然なのかもしれない。思い込みは禁物だ。


連続死事件や心霊スポットのデマを科学的に解明するとしたら、シンナーの幻覚作用によって説明がつきそうな気がする。

シンナーには幻覚を伴う妄想を惹起する作用があり、1992年12月には茨城県の水戸市でマンションの屋上からシンナー中毒の女子中学生5人が飛び降りて自殺を図るという事件も起きた。

その他にも4人で車ごと海にダイブして死んでしまった事件(1989年愛知県)や、幻覚に襲われ「やられる前にやってしまおう」と包丁で新聞配達少年を刺殺した通り魔事件(1984年群馬県)など、シンナーによる妄想や幻覚、あるいは錯乱に原因があったと思われる事件は少なくない。ことに自殺は本当に多い。

6人目の市職員と7人目の女子大生は違うが、連続死した残りの5人は皆、顔見知りで、全員シンナーの常習者だった。

彼らのシンナー仲間は、後にこう語っている。

「あれをやると、普通では考えられんような理屈に動かされることがある」

「たとえば塀の外にこちらからは見えないが、『人が死んどる』ような『感じ』がする。そこへたまたまカラスが飛んできたりすると、『やっぱりや』と思い込んでしまうようなことがある」

「『どないに頑張って仕事しても、俺ら結局あかんのと違うか』みたいな『感じ』があって、シンナー仲間の一人が死んだとき、頭に飛び込んできたその『やっぱり』に動かされてしまったのではないかと」(『不思議ナックルズ vol.5』より)


私は精神科医ではなく、その手の本の愛読者であるというだけの半端な知識しか持ち合わせないが、自分とは関係ないはずの出来事が自分と関係があるかのように思えたり、特別な意味があるように感じたりする「関係念慮」という心理的状況があることは知っている。

うっすらとした絶望の予感のようなものがベースにあり、仲間の死が引き金になってシンナー中毒の副作用による関係念慮が起きて、やはり死ぬしかないのだから死んでしまおうという衝動の虜になるというのは、充分に現実味のあるストーリーだと感じる。


……と、色々考えても、どうしても説明のつかないことは残る。

後ろ手に縛って首吊りをする。

梯子が無ければ手が届かないような高い枝に自分のシャツを巻き付けて首を吊る。

自ら胸を刺して失血死する。「違う、違う」と謎めいたメッセージを遺して。

ほぼ7日ごとの死は偶然だとしても、やはり不思議な事件だと思う。

「白い車」や「黒い車」は何だったのか。


古来、水は命の元であると同時に、死を予感させる恐ろしいものでもあった。

山道にかける七曲りの呪いは、山の治水、つまり大雨の際の山雪崩を防ぐ合理的な意味もあったという説がある。

溜め池の水は、古事記の昔から人里の命綱だった。

しかし長い時が過ぎ、雨乞いの神事は廃止され、闇淤加美神は忘れられた。

そのとき怪しい心霊スポットが現れ、不可思議な事件が起きたのは、偶然とばかりは言えないかもしれない。

いにしえの人ならば、大事な溜め池でシンナー遊びのような悪さをしたであろうか?

水神を畏れ敬う気持ちを人心が忘れた頃、町には大きな道路が出来て、暮らしはより便利になった。道路脇の古い寺院の故事来歴を知る者は少なくなり、勘違いの心霊スポット呼ばわりをされたあげくに不審火で焼かれてしまった。

呪文のような「七曲り」の俗謡を歌いながら山道を登るかわりに、少年たちはシンナーに酔ってオートバイで暴走するようになった。

そして今、シンナー遊びをする若者はほとんどいない。

暴走族も滅多に見かけることがない。

やがては熊取町で起きた連続死事件も、昔の奇譚のひとつになっていくに違いない。 町民憲章の一行目は「私たちは 古い歴史と 輝かしい未来をもつ熊取町の町民です」だ。

悠久の時の中では、今の出来事も未来の神話のようである。

(文/川奈まり子

コラム川奈まり子怪談
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