【川奈まり子の実話系怪談コラム】熊取七人七日目七曲がり(上)【第三十九夜】

2016/05/11 19:00


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怪談を採取していると、根拠不明の作り話が実に多いことに気づく。

ところが事実無根の嘘の奥に、本当にあった不気味な事件や故事来歴が隠れている場合も、また少なくない。

大阪府泉南郡熊取町成合の「皆殺しの館」がまさにそれで、喧伝されている怪談は虚構だが、深く掘り下げてみると、奇妙な事件もあれば故事来歴にも行き当たるという好例だった。


「皆殺しの館」の噂は、東京者の私ですら耳にしたことがあるくらいで、大阪では一時かなり有名だったようだ。

文字通り家族が皆殺しにされた邸宅が廃墟(または跡地)になっているとされ、都市伝説の温床になっていた。

インターネットの2ちゃんねるに、2000年9月に「皆殺しの館」について書き込まれたログが残っている。同サイトが立ち上げられたのが1999年5月30日なので、開設から1年4ヶ月足らずで投稿されたことになる。

スマホ登場以前のあの当時に、オカルト愛好者の間でインターネット掲示板の存在が広まる速度を考慮すると、おそらく2ちゃんねるが出来る以前から噂はあったものと思われる。

「皆殺しの館」伝説は、「そこに行くと幽霊が見える」といった曖昧な噂を除外して、具体的な話が大まかに分けて3パターンある。

「門の前に立ち、表札に書かれた名前を唱えると一家の主の霊に祟り殺される」

「建物を解体しようとしたら工事作業員が変死した」

「祟りを恐れて高速道路が邸跡を迂回して造られた」

――以上3つだが、これがぜんぶ嘘。

まず表札の祟りは、大阪府泉南郡熊取町成合のその場所に表札が存在したことは一度もないのだからありえない。

「皆殺しの館」と呼ばれた建物が成合寺という寺院だったことは、今日では明らかになっている。江戸時代の回船問屋で長者番付「西の大関」を獲ったことがある佐野(熊取の隣町)の豪商、飯野家の菩提寺だったそうだ。寺の山門にある扁額は表札とは言わない。

次に解体工事の作業員が死んだ話だが、平成13年に成合寺が不審火で焼失するまで建物があったので、あるわけがない話。

さらに、祟りを恐れて高速道路が迂回した説も眉唾である。たしかに現在の成合寺跡地は高速道路「阪和自動車道」をくぐるトンネルに近い山裾に位置し、敷地の端は阪和自動車道に接している。敷地内には墓地もあり、迂回した可能性はある。

阪和自動車道がこのあたりまで開通したのは、海南インターチェンジが出来た1984年から岸和田インターチェンジが開設された1990年の間。高速道の敷設工事が行われていた頃、すでに成合寺の持ち主はここを寺として運営することは止めており、大阪市に住んで、人に土地の管理を任せていたという。

管理人は通って来るだけで住むことはなく、長らく破れ寺になっていたそうだから、高速道路脇の廃屋は人の目にさぞかし不気味に映っただろう。

……が、道路は至極、真っ直ぐ通っているのである。

迂回したようには見えない。それにまた、肝心の一家惨殺事件が起きておらず、工事作業員も死んでいないのだから、祟りなど存在しないわけだ。


熊取町の「皆殺しの館」は、同じ大阪府内の柏原市高井田の旧・田中邸と混同されているのかもしれない。

旧・田中邸は「皆殺しハウスT邸」と呼ばれ、現在は取り壊されているが、少なくとも2011年頃までは建物が存在していて、「田中」と書かれた表札があった。

一説によれば、旧・田中邸にはかつて暴力団組長の一家が住んでいたが、ある日、組長が狂気に陥って家族を殺害したのち自殺した――つまり凄惨な無理心中事件がここで起きたのだという。

が、真偽は不明で、訪れた人々の談話を見ても、「荒れ果てているだけで何も起きなかった」というものが大半だった。


熊取町の人口は大阪府内の市町村で34番目の約4万4千人と、町としては府下で最多で、面積は17.24平方キロメートル (大阪府の面積の約0.9%)。公共施設は比較的充実しており、町内に合わせて8つの小中学校がある。

町名の由来は、周囲を山と丘陵でクマドリされて盆地になっている地形から名づけられたと言われている。

古くから農業と綿業が盛んだった土地柄で、今も主な地場産業は野菜づくりや綿スフ織物やタオル製造。町内には農地用の溜め池が数多く点在する。また、町内には京都大学原子炉実験所や「永楽ダム」がある。

「永楽ダム」も、「皆殺しの館」に次いで人気のある心霊スポットだ。

ダム湖から南東へ直線距離にして約10キロ先にある「熊取町営斎場」も。

そして、ダムも斎場も、「皆殺しの館」の成合寺跡と同じく過去に大きな事故や事件が起きた形跡がない。にも関わらず、噂だけが独り歩きしている。

そして、成合寺跡を含め、同じ山の山裾にある。

この山の名前は「雨山」。地図で確認すると、「永楽ダム」、「熊取町営斎場」、「皆殺しの館」こと成合寺跡は、山の裾野を南東方向に走る真っ直ぐなライン上に乗ることにすぐに気がつく。

雨山は標高312メートルで、泉佐野市土丸の土丸山と連山になっており、南北朝時代には「土丸・雨山城」が築かれ、山頂には「雨山神社」が鎮座していた。

古来から雨山は熊取の象徴的な山だとされているそうだが、山城も神社も、現在は遺跡があるのみだ。

雨山は、その名の通り、雨乞いの山として信仰を集めてきた山で、旱魃になると村人が雨乞いのために登頂して、雨乞いの儀式を執り行ったという。

現在でも、成合寺跡のあたりから北へ広がる山のふもとの成合地区が毎年9月1日に「八朔」という雨乞いが起源の行事を行っている。

また、今も盛んな「熊取だんじり」も、江戸・天保期の古文書に『往古より神躍(原文ママ。読みは「こおどり」)の列に先例出し来り候』と記されていることから、雨山神社に雨乞い祈願として奉納された神踊り「雨山踊り」と深く関わっていることがわかるのだ。

雨山踊りは、昭和期に入ってからも続けられていたが、昭和20年代に廃絶されたそうだ。


不思議な直線で結ばれる「永楽ダム」、「熊取町営斎場」、先述の「皆殺しの館」こと成合寺跡は、雨山にまつわる一種のパワースポットなのではないか――。

この仮説のもとに、私は雨山神社について調べてみた。

すると、いくつかの興味深い故事来歴が見つかった。


雨山神社は、その名を雨山龍王社ともいい、祭神は闇龗神、『古事記』の表記に倣えば闇淤加美神(くらおかみのかみ)。

闇淤加美神は、 闇御津羽神(くらみつはのかみ:別名・闇罔象神)、高龗神(たかおかみのかみ:別名・淤加美神)と同じく、日本を代表する水の神だ。

龗(おかみ)は龍の古語で、龍は、天空天地を行き来して雲を呼び雨を降らせるなど、水を自在に支配するとされる。

そして闇(くら)は、断崖に挟まれたような狭隘部、すなわち峡谷の意味だという。 万葉集には「くら谷」という言葉が出てくる。

 『鶯の 鳴くくら谷に 打ちはめて 焼けは死ぬとも 君をし待たむ』(巻第17・3941)


意味は、「鶯が鳴いている峡谷に身を投げようとも、焼け死ぬようなことがあろうとも、あなたのことをお待ちしています」といったところで、「くら谷」が相当に険しい地形であることが想像できる。

従って、「闇龗」の字義からは、峡谷を流れる水のイメージが浮かんでくる。闇淤加美神は峡谷の水をつかさどる神なのだ。

雨山の界隈にそのような場所があるかというと、はたして、山裾の「永楽ダム」と「熊取町営斎場」を繋ぐ道沿いに大きな池があった。河のように長い形の池である。ダムと斎場を結ぶ道程の半ばで池は500mほど途切れ、再び高速道路を超えた成合地区で水脈にぶつかる。

また、雨山の西南から西北にかけては樫井川が流れ、山裾の北側の端には点線でつなぐかのように溜め池が連なっている。

つまり、雨山はほとんど水に取り囲まれていた。水の神を祀るのにふさわしい山だったのだ。


古神道では山や川の自然領域を、「神奈備(かんなび)」として聖域化してきた。いにしえの神社には、神籬(鎮守の森や神体山、御神木)・磐座(巨岩、巨石)を御神体として社殿がなかったというが、雨山神社はどうだっただろう?

明治41年に雨山神社は、熊取町全町を氏地とする大森神社に合祀され、今では雨山山頂付近に小さな祠を遺すのみで、最初から社殿があったか否かは不明である。

ただ、祠のそばにヤマモモの巨木がある。この木は熊取町指定保存樹になっている。

闇淤加美神は、伊邪那美命(イザナミ)が火の神・火之迦具土神(ヒノカグツチ)を生む際に陰部を焼かれて死に、憤激した伊邪那美命の夫・伊邪那岐命(イザナギ)が十拳剣・天之尾羽張(アメノオハバリ)で火之迦具土神を斬り殺したときに、刀身の柄に溜まった血から生まれた神だとされている。

ご存知のように伊邪那岐命は伊邪那美命を黄泉の国から連れ戻そうとしたが、伊邪那美命の姿はすでに変わり果て、腐肉に蟲をたからせていた。

伊邪那美命に振り返ってはならぬと言われたのに振り返り、伊邪那岐命は恐ろしく変貌した妻の姿を見てしまう。そしてこの世に逃げ帰ろうとするが、8柱の雷神と黄泉軍に追いかけられる。伊邪那岐命は必死で逃げ、黄泉平坂の麓まで逃げてきたところ、そこに生えていた桃の木の実を3個、追っ手に投げつける。すると追っ手は退散し、伊邪那岐命は無事に此の世に帰ってくることができた。

――と、このような伝説を鑑みると、伊邪那岐命による子殺しの血から生まれた闇淤加美神を祀る雨山神社のヤマモモは、黄泉比良坂の桃の木を彷彿とさせるようだ。

桃とヤマモモは異なるけれど、どういうわけか神話の里・島根県松江市東出雲町の「黄泉比良坂」にも、ヤマモモの木があるのだという。


この土地の地形と神々の伝説を踏まえると、雨山神社は、山そのものが神体山だったのかもしれないという推論に辿りつく。つまり雨山自体が神奈備だった。

だとしたら、合祀の甲斐があったかどうか……。この山の神を祀ることをやめてしまったことになりはしないか、心配だ。


すでに歌う人がいなくなって久しいようだが、熊取町には雨山を登るときに歌う、こんな俗謡があったという。

「雨山の七曲り、七曲りにくい七曲り、七曲ってみれば七曲りにくい七曲り」


蛇行する山道を「七曲り」と呼ぶことは珍しくなく、全国各地の地名ともなっている。七曲りとは、つまり九十九折(つづらおり:ジグザグ状に急カーブの折り返しで連続する坂道)のこと。

こうした蛇行する坂道には、山道の勾配を緩やかにし、大雨の際に山道が川になるのを防ぐ合理的な機能があることが知られている。

しかし、現代ではとうに忘れられているが、七曲りの道には、神話的かつ呪術的な意味があったそうだ。


まず、ひとつには七曲りは雷や稲妻の形を模したもので、雨乞いと関係があったのだという。雷が雨を伴うことから、雷神は水神の属性を持つとされる。

雨乞いの儀式をする山の山道を七曲りにすることで、水神の力を借りようとしたのだ。 雨乞い信仰の雨山の七曲りは、この説に符合する。

それから、呪術の方では、まず、古来、坂は此の世と彼の世の境界であり、坂には魔や邪がひそむと言われていた。そして、魔を弱めるには「曲げる」とよい、しかも「七曲げ」が最も力が強いとする呪術的な考えがあった。

坂、すなわち山道。山道を「七曲り」にするという呪(まじな)いには、山の神に対する畏れがあらわれている。

呪術によって地にひそむ厄を防ぎ、同時に祀って敬ってきたのだが――雨山神社は失われ、神踊りは廃絶されて、七曲りの呪術も忘れさられた。


雨山の魔力を封じるものが消えた結果、漏れ出した魔や邪が、山裾の東南をよぎる道を伝って、事実無根の心霊スポットを出現させているのではないか……。

熊取町を俯瞰してみると、阪和自動車道の北西は人の領域、南東は山の領域に分かれていることにあらためて気がついた。

かなりはっきりした別れ方である。阪和自動車道に敷地を接する成合寺跡は、人の領域の端にある。人々が住まう成合地域からトンネルを潜る道は、ダム湖の横を通って、終点に熊取町営斎場がある。そこから先に道路はない。

死の儀式を執り行う斎場。異界への入り口を象徴するトンネルのそばの寺の跡地と、その先に広がる人々の暮らし。

この2つを繋ぐ道は、生と死を往還する道であるかのようだ。

そう、まるで黄泉平坂のように。


封印を解かれた山の魔は、どこへ向かうのか?

「皆殺しの館」の噂には、本当に根拠が無かったのか?

これらの疑問を解消すべく、さらに熊取町について調べてみたところ、私は、「熊取町7人連続怪死事件」と呼ばれる一連の出来事と、数字の「七」をめぐるこの土地の因縁にたどりついた。

(つづく)

(文/川奈まり子

コラム怪談
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